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ヒコユキからウツシコオへ

更新日:10月10日

番外編~内色許男命


◎ウツシコオのウツ・ウチはウツの転訛にて、ウチ、内は、氏、宇治、宇智、宇遅、及び渦、珍、宇豆、宇都、宇津に同じ。古事記に木国造の祖 宇豆比古(うづひこ)と見え、景行紀三年条には紀直の遠祖 菟道彦(うぢひこ)と見ゆとあります。


宇治は巨椋池全体をさします。参照:邪馬台国は巨椋池


これまで、このブログではウツシコオについて下記の記事を書いてきました。

下記の人名はすべて一人の人物(ウツシコオ)について様々な場面で考えてものです。

一部明らかに矛盾する記述もありますので、これからさらに検証していくつもりです。


◎ヒコサチ:忌部氏(彦幸)~和歌山・名草→ヒコユキ

※天孫本紀を見ますと、ヒコユキ(彦湯支)という人物が物部連系譜に一番上に書かれています。

※ヒコサチ(彦狭知神)は父の手置帆負神と共に登場し、天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し、御笠・矛・盾を制作したとされています。

※私はヒコサチとヒコユキを同一人とみなし、ヒコサチないし、ヒコユキをウツシコオの幼名としています。



◎大和朝廷(邪馬台国)の一員となる前にウツシコオは瀬戸内海を頻繁に往来していました。


くしふるたけ~高千穂  ウツシコオは九州でも活躍したようです。


◎ウツシコオは邪馬台国に入り山代国の内里に居を構えウツ(内)シコオと呼ばれるようになりました。同時に、淀川(河内湖)の管理・支配していたため一時期 三島の溝杭とも呼ばれていました。孝元天皇(饒速日)の右腕となり大綜麻杵(オオヘキソ)ともよばれ、魏にも行きました。


摂津富田~登美の里 :登美彦(とみびこ)


◎ウツシコオは大彦(大国主)のライバルであったようです。



◎ウツシコオは朝鮮半島にも行きました。



◎ウツシコオが反乱を起こしたとしたらタケハニヤスになってしまいます。

天日方奇日方命 阿田都久志尼命(あたつくしねのみこ)


◎ウツシコオは神となりました。


◎紀ノ國の名草の太田は、呉の勝 (古代朝鮮三国からやって来た人々)が最初に居ついた場所です。ウツシコオは魏の言葉を自在に話せた理由もウツシコオ自身も呉の勝だったからです。ウツシコオは長脛彦=大物主です。大物主は長脛彦

大物主は多氏です。太田氏です。太田命の6座の太田です。ウツシコオは猿田彦です。登美氏(富氏)は多氏(おおし)ではないかと私は考えています。大氏は日本最古の皇別氏族とされています。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、多氏のうち、畿内の本流一族は大和国十市郡飫富郷に住み、古事記の編者である太安万侶もこの一族です。そして、多氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされています。


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 06
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 猿田彦命と事代主命の関係

 三輪高宮家系譜では猿田彦命の子が事代主命となっている。この可能性は考えられないだろうか。ここでいう事代主命は賀茂建角身命の娘玉依姫と結婚している。また、大山咋命が玉依姫と結婚したと伝わっている。このことから事代主命=大山咋命となる。

 京都府亀岡市の桑田神社・請田神社においては大山咋命が市杵島姫と共に亀岡盆地を開拓したと伝えられている。また、松尾大社でも大山咋命と市杵島姫が共に祭られている。大山咋命と市杵島姫はどのような関係にあるのであろうか。市杵島姫は猿田彦命の妻であった。このことは、 奈良市今御門町一番地の猿田彦神社で市杵島姫が妻神として祭られている事からわかる。このことと三輪高宮家系譜をつなぐと事代主命は猿田彦命の子となるのである。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 05
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