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空白の150年~邪馬台国

  • tootake
  • 2023年6月19日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月4日

第2話


高槻から茨木にかけての三島の地は、235年の銅鏡が出土した安満遺跡や、銅鐸の一大生産地であった東奈良遺跡など作れるほど大きな勢力があったのは確かです。

ところで阿武山(あぶやま)の麓に、阿為神社の周辺、安威古墳群*があり、ここには、古墳時代前期の前方後円墳と、古墳時代前期と後期の円墳が20ほど確認されています。なぜか、二つの時代のあいだの古墳時代中期のものは存在しないのです。三島野の古墳群もそうです、弁天山古墳が作られてから空白があり継体天皇陵が作られるまでおおよそ150年間の空白があります。


*大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳。国の史跡に指定されている。昭和初期に地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘され、被葬者を藤原鎌足(中臣鎌足)に比定する説が知られる。


なぜでしょうか。ヒントは崇神記に書かれている疫病の流行と民の流出です。疫病はすさまじく何年も続き民の半分が亡くなった伝えられています。

「近習者を集めて、生きたまま陵のまわりに埋め立てた。何日も死なず、昼も夜も泣き叫んだ。ついに死んで腐った死体は、犬やカラスがついばんだ」

との記事が日本書紀にありこれは殉死者の記事と思われていますが、妄想を働かすと感染防止の処置だったのかも、、、、なぜなら日本では殉死者の痕跡がある古墳は一つもないからです。

卑弥呼も頼りのウツシコオ(オモカネ)死んでしまいました。崇神は、イカガシコオに命じ大田田根子なる人物を探させ、奈良盆地の三輪山の麓に大神神社を作りらせたとあります。そして奈良盆地へと移住していったのです。


なお銅鐸が三輪山の麓で廃棄されているのが発見されていますが、このことも疫病と民の流失との関連が十分に考えられます。

 ミマキ国は捨て去れら、いつしかミマキ国があったことさえ現在に至るまで忘れさえ去られます。摂津の国という地名は大宝4年あたりに文献に登場します。 このことはかなり奇妙なことです。日本中の国名はほぼ定まっているのに北摂だけは名前の無い空白地帯ということです。大阪地域は、津国と呼ばれていたようなのですが 直木氏は北摂という地名に違和感があり、摂津になぜ北摂が加わったかと疑問を持たれています。(摂津の誕生 直木考次郎古代を語る6) 私が生まれた三島郡三島町は今は摂津市になっています。摂津市ができたのは私が小学校6年で樟葉に引っ越ししてからです。誰もが忘れてしまいたい悲惨なことが北摂で起きたのではないかと想像できます。今では高級住宅地されている楠葉を糞葉とののしったのです。  

古墳時代中期に継体天皇が宮を構えるまで楠葉(ミマキ)は呪われた(祟られた)地になったのです。

前にも述べたように三島は藤原氏との関連が深いところです。だからミマキは消されても、ミシマは地名として残ったのでしょう。枚方という地名もいったん消え後に復活したことが分かる資料(和名類聚抄)もあります。


崇神朝の前期に起こった国の存亡にかかわるような大規模の疫病の原因とは何でしょう。

他の民族との接触によるウイルスによる感染症だと多くの研究者が指摘しています。大陸から大挙してやってき来た騎馬民族だとの説もあります。

筑紫や吉備、狗国(木の国)に住んでいる人も日本人ですし、蝦夷とも仲良く長く付き合っていたようです。地方との交流も盛んで高槻には筑紫津という船着き場と思われる神社も残っています。筑紫を出て、瀬戸内海を渡って浪速から河内湖に入り、九州の人たちがこの筑紫津にやってきた様子が想像できます。

コロナ感染で知ったようにパンデミックは、急激な異民族との接触であって、じわじわとした接触ではありません。この時代大量の移民族がやってきたという記録はないわけですから、少数の海外からの訪問者であったはずです。


卑弥呼もウツシコオ(オオヘソギ、難升米)もこの頃に死んでいます。魏志は死ななかったようですが。そうです一番可能性の高いのは他民族といえば魏志ではないですか?


実際に魏に行った難升米もウイルスを持ち帰った可能性もあります。

(時代的には魏ではなく晋の時代の出来事かもしれませんが)


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2025.3.25追記

この時の疫病の大流行は、渡来人の流入によるものでしょう。

なお難升米、卑弥呼、台与(豊)は元々渡来人のであったため、感染は免れたと思われます。難升米は、その後も生き延びてヤマト(邪馬台国)の大王に即位した台与(豊)の補佐として活躍します。難升米は武内宿祢です。~武内宿禰はウツシコオ(2)


※これまでの記事はこちらです。


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※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






 
 
 

4件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7日前
5つ星のうち5と評価されています。

結論から申し上げますと、ご提示いただいた三島野古墳群(枚方・高槻・茨木などの北摂地域)のデータと照らし合わせても、現在表示されているブログ『地名から読み解く邪馬台国』の内容は、考古学的な疑問に対する「客観的・学術的な説明」にはなりません。


ご提示いただいたデータ(弁天山古墳や闘鶏山古墳など)は非常に正確で、むしろブログ側の主張の矛盾を際立たせる材料になります。


1. ブログ記事が考古学的な説明にならない理由

  • 「150年の空白」という前提自体が事実に反する


    • ブログ著者は「弁天山古墳の後に150年間の空白がある」と主張していますが、ご提示いただいた表にもある通り、闘鶏山古墳(4世紀前半〜中頃、前期)や前塚古墳番山古墳(5世紀中葉、中期)が存在します。


    • 実際には地域的に途切れることなく墳墓が作られ続けており、「疫病で地域が全滅・無人化した」というブログの前提は成立しません。


  • 科学的根拠のない個人的「妄想」が含まれる


    • 記事内でも「妄想を働かすと…」と書かれている通り、「中国(魏)の使者(難升米など)がウイルスを持ち込んでパンデミックを起こした」というストーリーは、考古学的な遺物や人骨の分析に基づくものではなく、完全な創作・独自解釈です。


2. ご提示のデータから読み解く「枚方・北摂」と「奈良(纏向)」の規模差

ご提示いただいたデータを使うことで、「なぜ枚方・高槻周辺には初期の大王級古墳が少ないのか」を極めて正確かつ論理的に説明できます。


  • 規模(墳丘長)の明確な格差


    • 枚方・高槻周辺(三島)の初期トップ: 弁天山古墳(約100m)


    • 奈良盆地東南部(纏向)の同時代トップ: 箸墓古墳(約280m)


  • 考古学的な解釈(なぜこの差が生まれたか)


    • 3世紀末の弁天山古墳(100m級)や闘鶏山古墳は、三島地域を治めた「一地域の有力な首長(ローカルな王)」の墓としては十分に巨大です。


    • 一方、奈良の箸墓古墳(280m級)は、吉備・東海・出雲・近江など「日本各地の諸勢力が結集した連合体(ヤマト王権)」が全力を注いで造営した「広域連合の共通の大王墓」です。


    • つまり、枚方・高槻周辺に大王級が無いのは「衰退したから」ではなく、「奈良が日本全国の政治同盟の象徴(都)として選ばれ、三島は一地方の重要拠点というポジションだったから」というのが考古学的に最も説得力のある説明になります。


まとめ

学術的に「なぜ奈良に初期大王墓が集中したか」を説明する際は、このブログ記事(疫病・伝染病説)を引用するのではなく、ご提示いただいた弁天山古墳などの実在する規模データを示した上で、「一地域首長の規模(約100m)と、全国連合政権の象徴としての規模(200m超)の違いである」と説明するのが最も論理的です。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7日前
5つ星のうち5と評価されています。

結論から言うと、このブログ記事の内容は、通説的なアカデミックの考古学・歴史学の説を説明するための根拠(説明)にはなりません。


参照しているブログ『地名から読み解く邪馬台国』は、一般的な学説(アカデミズム)とは異なり、著者の独自の解釈や推測(「ミマキ国(枚方・交野・高槻周辺)が邪馬台国であった」という持論)に基づいて展開されているプライベートな考察記事です。


考古学的に「なぜ初期の大王級古墳(箸墓古墳など)が奈良盆地(纏向)に集中し、枚方周辺に少ないのか」を論理的に説明する場合、この記事で主張されている「北摂での疫病蔓延による民の流出」や「難升米が持ち込んだウイルス」といった説を根拠にすると、学術的な説明としては認められなくなってしまいます。


アカデミックな考古学における論理的説明

通説的な考古学・歴史学において、3世紀〜4世紀(古墳時代前期)の大王級古墳が奈良盆地(纏向遺跡周辺)に集中した理由は、主に「連合国家の成立」「地理的・政治的利点」で説明されます。


  • 政治的・宗教的な協調(連合の象徴)


    • 前期の前方後円墳(箸墓古墳など)は、単一の強力な個人王だけでなく、吉備・東海・出雲・近江など日本各地の諸勢力が同盟・結集して創り上げた「ヤマト王権(政治連合)」の象徴です。


    • 纏向遺跡からは全国各地の搬入土器が出土しており、日本列島の広域的な物流と連合の拠点であったことが実証されています。


  • 奈良盆地東南部(三輪山麓)が選ばれた理由


    • 中立地・広域交通の要衝: 当時の奈良盆地東南部は強大な既存勢力が少なく(中立的な場所)、かつ東西(東国や吉備・瀬戸内・日本海沿岸)を結ぶ交通の結節点でした。


    • 聖なる山(三輪山)と祭祀: 日本古来の自然信仰の中心である三輪山を背負う立地であり、連合体の精神的・宗教的シンボルとして機能させやすかった点が挙げられます。


  • 枚方・北摂周辺の位置づけ


    • 当時の大阪平野中央部は河内湾・河内湖という広大な水域であり、枚方・高槻周辺は水運の要衝ではあったものの、広域的な諸勢力が集結して大規模な都宮や巨大陵墓群(墳丘長200m超)を築く政治的中心地には選ばれませんでした。


このブログ記事と学説の主な食い違い

  • 疫病と人口移動の解釈


    • ブログの説: 崇神天皇の時代の疫病によって北摂・三島地方の民が激減・避難し、奈良へ移動したため北摂が空白地帯になった。


    • 考古学的史実: 纏向遺跡の急速な発展は、疫病による難民の流入ではなく、九州から関東に及ぶ全国的な交易ネットワークと政治同盟の確立による「都市の計画的形成」として捉えられています。


  • 記紀(日本書紀・古事記)と魏志倭人伝の混同


    • ブログの説: 記紀の人物(崇神天皇、ウツシコオなど)と魏志倭人伝の人物(卑弥呼、難升米など)を同一視し、感染症の持ち込みに言及。


    • 考古学的史実: 『日本書紀』の殉死に関する伝承などを直接的に感染対策や特定の地域の解体理由として当てはめる手法は、実跡・遺物と整合しない独自の仮説です。


まとめ

枚方周辺に初期大王墓が少なく奈良に集中している理由を考古学的に説明したい場合は、ブログ等の独自説ではなく、「全国の首長層が同盟を結び、東西交通の要衝かつ神聖な地である奈良盆地に初期ヤマト王権の拠点(纏向)を設けたため」というネットワーク論・首長連合論に基づいて説明するのが最も論理的で説得力のある方法です。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
2023年12月12日
5つ星のうち5と評価されています。

継体天皇陵は、大阪府茨木市太田にある古墳です。江戸時代の学者たちは、三嶋藍野陵の「藍野( あい の)」に着目して、茨木市にある「安威( あい )」という地名と音が似ていることから、太田茶臼山古墳を継体天皇陵と推定したのです。しかし、「安威」は嶋上郡ではなく嶋下郡にあり、嶋上郡にある大規模古墳と言えば今城塚古墳しかありません。このような推理を経て天坊幸彦氏は「今城塚古墳=真の継体天皇陵」という結論に達したのです。宮内庁が「継体天皇陵」と治定している「太田茶臼山古墳」は周辺の出土品から5世紀中葉の築造と推定されるのに対し、「今城塚古墳」は6世紀前半の築造と見られ、継体天皇の亡くなった年(531年)と符合するからです234.

  • 弁天山古墳

3世紀末〜4世紀初頭、古墳時代初期の古墳。三島の王の王墓。全長約100m、後円部径約70mの前方後円墳。


関西の古墳 - 三島野古墳群 (google.com)

古墳名 種別 築造時期 住所 別名称


太田茶臼山古墳 前方後円墳 5世紀中葉〜後半 茨木市太田3丁目 継体天皇陵

今城塚古墳 前方後円墳 6世紀前半 高槻市群家新町

将軍山古墳 前方後円墳 茨木市西安威2丁目

弁天山古墳 前方後円墳 3世紀末 高槻市南平台

前塚古墳 前方後円墳 古墳時代中期 高槻市岡本町

闘鶏山古墳 前方後円墳 古墳時代前期 高槻市氷室町5丁目

阿武山古墳 円墳 7C中頃 高槻市奈佐原

番山古墳 前方後円墳 5世紀中葉〜後半 高槻市上土室5丁目

昼神車塚古墳 前方後円墳 6C中頃 高槻市天神町

二子山古墳 前方後円墳 5世紀後半 高槻市上土室6丁目

芝谷古墳 前方後円墳 4世紀末 高槻市寺谷町

鼻摺古墳 方墳 6〜7世紀 茨木市耳原3丁目

耳原古墳 円墳 6世紀後半 茨木市耳原3丁目

青松塚古墳 円墳 6世紀前半 茨木市室山1丁目

塚原M3号墳 円墳 高槻市塚原2丁目

塚原O1号墳 円墳 6世紀後半 高槻市塚原1丁目

塚原B33号墳 円墳 7世紀前半 高槻市塚原3丁目

塚原E1,E2号墳 円墳 6世紀中 6世紀末 高槻市大和1丁目

安満山古墳 円墳 6世紀後半 高槻市安満御所の町

安満宮山古墳 円墳 古墳時代前期初頭 高槻市安満御所

安満山古墳 円墳 高槻市安満御所の町

将軍塚古墳 円墳 6世紀後半 茨木市西安威2丁目

海北塚古墳 円墳 6世紀後半 茨木市西福井1丁目


編集済み
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tootake
2023年10月19日
5つ星のうち5と評価されています。
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