第432話 #謎の5世紀 #倭の五王 #辛亥の変 #乙巳の変
倭の五王は、中国南朝の宋帝国(劉宋)の正史;宋書に登場する倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武のことです。これらの王たちは、5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉などの南朝に遣使入貢し(遣宋使)、また梁からも官職を授与されています。この倭の五王が誰なのかは全く不明です。
現在も有力な仮説として、大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)を「武」(倭武)とする説があります。他の説として、「讃」は15代ホムタワケ=応神で、「珍」をオホサザキ=仁徳とする説や、「讃」が16代オホサザキ=仁徳で、「珍」をミヅハワケ=反正とする説などがあります。しか応神天皇も仁徳天皇も架空の天皇で実在の人物ではありません。
参照:第131話:応神天皇は架空の天皇~邪馬台国異聞6 第132話:仁徳天皇も架空の天皇!!
古事記・日本書紀で倭の五王の比定されるべき天皇は下記ですが、これらの天皇は、全て実在しない架空の天皇です。
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇
反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、億計天皇
武烈天皇、継体天皇、允恭天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇、敏達天皇
用明天皇、崇峻天皇、推古天皇、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇
古事記、日本書紀(以下:記紀)はその時代の記録を伝えていると思われていたらそれは、大きな間違いです。記紀はそれらが創作された(編纂されたとは言いません)時の思想を述べているのです。王権とか王位とかいうものは歴史的に作られたものだということは、古代史の研究者では常識だそうです。山尾幸久氏(立命館大学名誉教授)は「継体大王とその時代」(枚方市文化財研究調査会編集)の中で4,5世紀の王権継承は血縁原則ではなかったとされておられます。山尾幸久:立命館大学名誉教授 「継体大王とその時代」枚方市文化財研究調査会編集 P257
困ったことに考古学者たちは、記紀の内容を信じているのです。架空の天皇である神武天皇、仁徳天皇や応神天皇などの陵など存在するはずがないのです。
一方、「倭の五王」はヤマト王権とは別の国の王とする説も江戸時代から存在しています。特に九州の首長であるとする説は根強く、戦後も古田武彦氏が九州王朝説を唱えて一時期は学術誌に掲載されることもありました。佐藤長門氏は、王統の断絶が起こっており、血縁関係の無い王族グループが複数存在し、その中から王権の継承が行われていたとしています。
継体大王が崩御し、その時に勾大兄王子(安閑)・檜隈高田王子(宣化)が同時に死んだことが、日本書紀が引用する百済本記でに記載されています。(辛亥の変)
【或本云 天皇 廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其 文云 太歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 ・・又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣 後勘校者 知之也】
和訳文:ある本には天皇(継体?)は二十八年甲寅に崩御としている。
それをここで二十五年辛亥に崩御としたのは百済本記によって記事を書いたのである。その文にいうのに、「二十五年三月、進軍して安羅に至り、城を乞屯に造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。これによって言うと 辛亥の年は二十五年にあたる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。
つまり、辛亥の年に継体大王が死んで、太子や王子も死んだということで、これは辛亥の年を欽明即位の年とする元興寺伽藍縁起并流記資財帳と合致します。 埼玉稲荷山鉄剣銘文では、辛亥の年に欽明大王が即位したと書いてあります。
台与は女性ですが、藤原不比等・記紀の作者は、日本の天皇家が「男系天皇」を継続してきたとしたいことから、「天皇家は万世一系」とするためにトヨ=豊受姫が13歳の少女ではまずいので男性として記紀には記載しています。
もし上記の辛亥の変なるものが事実とすれば、倭の五王が誰だか分からない理由もわかります。佐藤長門氏は、王統の断絶が起こっており、血縁関係の無い王族グループが複数存在し、その中から王権の継承が行われていたとしています。
記紀はそれらが創作された(編纂されたとは言いません)時の思想を述べているのです。としましたが、記紀の思想とは「天皇家は万世一系」です。
つまりウツシコオ・卑弥呼その後を継いだトヨ=継体天皇が死にその子孫も殺されてしまったならば、日本(倭国)は乱れに乱れ、「天皇家は万世一系」などとは到底言えない事態に陥っていたと思います。
そこで中臣鎌足らが乙巳の変で権力を手にした藤原氏が、平和国家の思想として「天皇家は万世一系」を思いつき、藤原不比等は記紀を創作するに当たり辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)を無かったことにしたのです。こうすれば皇位継承を巡っての戦いがなくなると思った(願った)のでしょう。
倭の五王の時代の日本(倭国)の記録は、日本国内には全くありません。乙巳の変で蝦夷は舘に火を放ち「天皇記」、「国記」を焼いて自殺したとされていますが、「天皇記」、「国記」には倭の五王の時代のことが記録されていたと思われます。「天皇記」、「国記」を焼いたのは中臣鎌足でしょう。
<宋にある倭国の記録=日本側(記紀)にはこれらのことについての記載は全くありません>
421年 倭王讃が宋へ遣使
425年 司馬曹達が宋へ出向く
438年 倭王珍が宋へ遣使・安東将軍・倭国王となる
443年 倭王済が宋へ遣使
451年 倭王済が使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加号される
460年 倭国が宋へ遣使
462年 倭王興が宋へ遣使
477年 倭王武が宋へ遣使
478年 倭王武が使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王となる
479年 南斉が倭王武を鎮東大将軍に昇進させる
502年 梁が倭王武を征東大将軍に昇進させる
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
蝦夷 ~エビス(恵比寿) (hidemaru3375.com)
記紀の書き手は資料が少ないので、一人の事績気を何人かの話として書き換えた。
このエピソードは、こっちの天皇の話にしよう、この天皇はこの話が良いとか、、、
『古事記』『日本書紀』の紀年との対応関係
『古事記』に紀年の記述は無いが、分注として一部天皇の崩年干支(没年干支)を記す。この崩年干支を手がかりに歴代天皇を倭の五王を比定する説がある。『古事記』は天皇の崩年(没年、崩御の年)を次のように記す。
『古事記』の天皇崩年干支
西暦 干支 代 名前
394年 甲午 15代 応神
427年 丁卯 16代 仁徳
432年 壬申 17代 履中
437年 丁丑 18代 反正
454年 甲午 19代 允恭
489年 己巳 21代 雄略
527年 丁未 26代 継体
『古事記』の天皇崩年干支がある程度正しく、また五王がすべて別々の王(大王)であったとすれば、「讃」=オホサザキ=大鷦鷯天皇(仁徳)、「珍」=ミヅハワケ=瑞歯別天皇(反正)、「済」=オアサヅマワクゴノスクネ=雄朝津間稚子宿祢天皇(允恭)、「興」=アナホ=穴穂天皇(安康)、「武」=オホハツセノワカタケル=大泊瀬幼武天皇(雄略)となる(数年程度の誤差は存在する)。1箇所、『宋書』の倭王系譜と明らかに矛盾する箇所がある。すなわち「珍」を「讃」の弟とする点である。
「讃死弟珍立遣使貢献」(讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。)
— 『宋書』倭国伝
『古事記』が丁丑年=437年に崩御したとする反正天皇は、『古事記』『日本書紀』によればイザホワケ=去来穂別天皇(履中)からの兄弟継承であり、仁徳天皇の子である。履中天皇は430年以後に即位し、宋に遣使することなく438年以前に崩御したと考えられる。しかし「讃」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇に比定すると、『宋書』倭国伝における「珍」を「讃」の弟とする記述と矛盾する。このように一定の限界はあるものの、『古事記』の天皇崩年干支により倭の五王が推測できる[注 16][49]。一方、『日本書紀』の記述からは天皇崩年干支は次のように計算され、「讃」「珍」「済」がいずれも允恭天皇、「興」「武」がいずれも雄略天皇の治世となって大きく矛盾する。
『日本書紀』の天皇崩年干支
西暦 干支 代 名前 説明
405年 乙巳 17代 履中 仁徳天皇の第一皇子
410年 庚戌 18代 反正 仁徳天皇の第三皇子
453年 癸巳 19代 允恭 仁徳天皇の第四皇子
456年 丙申 20代 安康 允恭天皇の第二皇子
479年 己未 21代 雄略 允恭天皇の第五皇子
このような矛盾はあるが、『日本書紀』の応神天皇紀と仁徳天皇紀に「呉」との外交記事があり、履中天皇紀と反正天皇紀には無いことを重視すれば「讃」は応神天皇、「珍」は仁徳天皇となる。応神天皇の外交記事は治世37年にあり、120年(干支2巡)繰り下げると西暦426年となり、「讃」の最後の遣使と思われる425年に近い。仁徳天皇の記事は治世58年にあり、60年(干支1巡)繰り下げると430年となり、『宋書』本紀にある倭国王(王名の記述なし)の遣使年と一致する。この説も応神天皇と仁徳天皇が兄弟となる点で『日本書紀』や『古事記』と矛盾するが、「彌(珍)」と「済」が親子という『梁書』の記事とは一致する[注 17][49]。
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