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台与と秦氏

更新日:10月4日

第459話 #秦氏 #台与 #邪馬台国 #丹波 #タケハニヤス


台与は第457話:川上梟帥はスサノオ 川上梟帥(スサノオ~ウツシコオ)を討ち、前号:第458話:玖賀耳之御笠(クガミミ) では玖賀耳之御笠(クガミミ)を討ちました。両者は共に饒速日(ニギハヤヒ)の可能性が高いように書いています。


川上梟帥(カワカミタケル)、玖賀耳之御笠(クガミミ)が饒速日がどうかは置いておくとして、何故、12-13歳少女にそんなことができたのでしょうか。


第435話:大宜都比売(おおげつひめ)は台与 では「倭迹迹日百襲姫命は7・8歳で台与は13歳で記紀に登場します。なぜこんな幼い女の子が高度な農業技術を持っていたかというと、第425号:秦氏と大山咋神 で述べたように、台与の背後には秦氏が付いていたからです。」と書きました。


台与の後ろ盾は秦氏です。玖賀耳之御笠(クガミミ)を倒したことで台与と秦氏は、丹波(投馬国)を手に入れます。京都市左京区の北部は、昔は丹波に属していたといいます。古代には、京都盆地の北部は、ほとんど丹波の領域だと思われます。陸耳御笠のクガという地名は以前にも書いたように京都府伏見区久我〒612-8494です。京阪電車の丹波橋の近くです。邪馬台国の時代は亀岡が中心の丹波(但馬=投馬国)の入り口で丹波に属していたと考えられます。桂川の水運を押えるていたのがクガ耳(玖賀耳之御笠)です。


山背國というのは、だいたい巨椋池付近までで、それより北は主として秦氏や栗隅氏が開発したのだとされています。当時の山城の国には愛宕(うたぎ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人物が多数住んでいました。現在の京都市内で、北区、中京区を含むという。同志社大学付近には遺構があります。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにあります。愛宕山(あたご山)は京都と亀岡の境にあり、かつては丹波の勢力圏でした。出雲は丹波だったのです。参照:第19話:投馬国は但馬、但馬は丹波、丹波は出雲

ヤマトタケル(日本武尊)=台与は出雲建(いずもたける)も成敗していますが、これは川上梟帥=出雲建ということです。


愛宕(うたぎ)郡出雲郷といえば、あのタケハニヤスの根拠地です。

第65話:タケハニヤスの乱(最終章) ~京都市北区出雲路では、次のように書きました「タケハニヤス(武埴安彦命)は、大彦に散々に打ち破られ樟葉の渡しから北の方に逃げます。タケハニヤスの根拠地は、愛宕郡(おたぎぐん)であったと思われます。愛宕郡は乙訓(おとくに)郡の別名で、京都市北区の一部:紫野・紫竹・大宮・西賀茂・出雲路・小山・上賀茂・鷹峯・雲ケ畑を指します。賀茂川の周辺です。」


つまりタケハニヤスが玖賀耳之御笠(クガミミ)がウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王だとすれば、話はつながります。


第344話:聖徳太子伝説~堀江と茨田堤では、仁徳天皇=聖徳太子が茨田堤や堀江を築いたとしました。第342話:聖徳太子は菟道稚郎子?! では聖徳太子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)としましたが、聖徳太子の別名は徳豊聡耳法大王で、豊(トヨ)でしょう。聖徳太子=菟道稚郎子=台与です。


茨田堤や堀江を築いたのは秦氏です。

「又秦人(はたひと)をえたちて茨田堤及(また)茨田三宅を作り、又丸邇池(わにのいけ)・依網池(よさみのいけ)を作り、難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江(をばしのえ)を掘り、又墨江の津を定めたまひき」

現在の寝屋川市の「秦町」・「川勝町」・「太秦町」などの地名によっても伝えられています。寝屋川市は枚方市の隣です。北河内全体が邪馬台国です。


秦氏が台与の後ろ盾になり、両者が協力したことによってヤマト=邪馬台国は、大規模な土木工事ができるようになり、亀岡の干拓(参照:秦氏と大山咋神 丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!)や香川県で農地の開墾、開拓を行い四国の人々に食料を安定して供給することができたのです。参照:大宜都比売(おおげつひめ)は台与


丹波の地名の由来は、 「赤い米がたわわに実って風にそよぐさまが赤い(丹)波のようみ見える」というように解釈されており丹波でも稲作を安定化させたようです。


台与の背後には付いていた秦氏は潅漑用水・港湾の修築まで、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術を持っていました。


玖賀耳之御笠(クガミミ)=ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王=饒速日を倒し、ヤマト=邪馬台国を手中にした台与は、秦氏と共に邪馬台国を奈良県に移し大和朝廷となったのです。


勘注系図は建田勢命(=台与*注下記)が宰(みこともち)となって丹波に赴き、その後山背の久世水主村(くぜみずしむら)に遷り、更にその後大和(奈良県)に遷ったとしています。久世水主村とは現在の京都府城陽市久世で巨椋池があったところです。参照:第284話:邪馬台国は巨椋池


タケハニヤスは彦国葺の放った矢が武埴安彦の胸に当たって死んだとされています。

この彦国葺の和珥の遠祖であるとされています。そして彦坐王(ひこいますのみこ)は和珥氏(わにし)の祖とされています。彦国葺=彦坐王=台与とすれば、話が繋がります。  参照:第236話:彦国葺~タケハニヤスを射った男


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*注~建田勢命は孝昭天皇であるとされています。【古事記】神産み 〜100倍面白くなる小ネタ6選〜 解説編|いろは (note.com)

◎孝昭天皇は台与です。第443話:孝昭天皇は台与:日原は目原

   

※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


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