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天忍穂耳尊は饒速日!?

第438話 #天忍穂耳尊 #台与 #ニギハヤヒ #ニニギ #アメノオシホホミミ


天忍穂耳尊は素戔嗚尊(スサノオ)が天で自身の清い心を示すために生んだ五皇子の長男であるとされています。日本書紀によると素戔嗚尊は姉の天照大神の前で「自分の心が清らかならば男神が生まれ、そうでなければ女神が生まれる」と誓約(うけい)を行い、五皇子を生んだ。誓約に勝ったので正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命と名付けました。「正哉吾勝」「勝速日」天忍穂耳尊の名前の一部となっています。


天忍穂耳尊は高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間に瓊瓊杵尊をもうけました。

高皇産霊尊はこの孫を葦原中国の主にしようと画策します。(日本書紀:神代紀第九段)しかし天忍穂耳尊の事績は無く、系譜上のみの神となっています。


古事記だと葦原中国平定は天照大神が天忍穂耳尊を降臨させるために行われ、実際に天忍穂耳尊が天降ろうとする場面があります。しかし下界は物騒だとして天忍穂耳尊は途中で引き返してしまいます。大国主神から国譲りがされると再び天忍穂耳尊に降臨の命が下りますが、天忍穂耳尊はその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊に行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天降ることになります。これが天孫降臨です。


天忍穂耳が素戔嗚の子であるというのは保留して、上記を要約すると、

・本来は天忍穂耳尊が葦原中国=邪馬台国=ヤマトの大王になるはずであった。

・しかし高皇産霊尊(ウツシコオ(内色許男命)スサノオ)自分の孫に当たる瓊瓊杵尊(ニニギ:瓊瓊杵尊)をヤマト(邪馬台国)の王に即位させたということになります。


瓊瓊杵尊(ニニギ)は13歳で卑弥呼の後を即位したと魏志倭人伝に書かれている台与であることは既に述べました。第437話:台与の物語


天忍穂耳尊は孝霊天皇=饒速日(ニギハヤヒ)だとすればすべての話が繋がります。


紀ノ國の名草から出て来た熊野水軍のリーダーとなったヒコユキ(ヒコサチ)(内色許男命)は、饒速日が支配しているヤマト(大阪府高槻市)にやってきて、一時紛争はあったもののヒコユキの姉を饒速日に差し出し配下につきます。優秀であったヒコユキは巨椋池の周辺の内里と居を構えウツシコオのと呼ばれます。姉はウツシコメで孝霊天皇(=孝元)=饒速日の后となります。やはり優秀であったためヒメミコ(卑弥呼は萬幡豊秋津師比売)呼ばれます。


ウツシコオは但馬・亀岡の開発を行い孝霊天皇(=孝元)=饒速日の宰相となります。参照:第339話:丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!

実力をつけたウツシコオは孝霊天皇=饒速日を殺害します。参照:第373話:孝霊天皇クーデター事件

ウツシコオは長脛彦です。第213話:長脛彦の物語

そして姉のウツシコメ(卑弥呼)をも排除し(参照:第366話:狗奴国と女王国、瓊瓊杵尊(ニニギ)=台与をヤマト(邪馬台国)の大王に即位させます。


正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は、正哉吾勝勝速日天忍尊、忍命とも表記します。饒速日は骨にされてしまったのです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Sep 12
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八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐[1]。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥を討たせた[1]。即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた[1]。3年後、帰途に伊勢国能褒野で30歳で逝去した日本武尊を埋葬し、大和国と河内国にも白鳥陵を造る。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣とした。即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。


幡頭神社 - 三河湾(渥美湾)の西尾市(吉良町)にある宮崎という地にある岬の丘の地に鎮座。東征の帰路、「幡頭」を務めた建稲種命が駿河(伊豆)沖の海で水難事故で死に、遺骸がこの岬の宮崎海岸に流れ着き、村人達により葬られたと伝えられる。

  • 待合浦(羽豆岬) - 南知多町師崎にある建稲種命を祀る羽豆神社近く、師崎は建稲種命と妻の玉姫が住んでいたとされ、建稲種命は毎日の様に風光明媚な羽豆岬を散歩していたとされる。やがて建稲種命がヤマトタケルに従い水軍を率いて東征の出陣の時、妻の玉姫は夫の帰りをずっと待ち続けていたとされる浦の為、「待合浦」と呼ばれる様になった。


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