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スサノオは津田の王

更新日:7月12日

第351話


枚方市の津田は、旧・河内国交野郡:現在の枚方市の東部、学研都市線の沿線にあります。戦国時代には、津田城(つだじょう)がありました。国見山(津田山)の山頂にあり、国見山城(くにみやまじょう)とも呼ばれています。


国見山は標高およそ300メートル。山頂からは、木津川・宇治川・桂川の合流地点を隔てて広がる京都の市街や、その向こうに比良・比叡のひときわ高い山容を望むことができます。また、石清水鳩ケ峰(はとがみね)と天王山の狭間から淀川が南流して、摂津と河内を二分する様子を見ることもできます。見晴らしのよい日には六甲山や白く光る大阪湾も見えます。


下記の地図をご覧ください。1:の津田がこの地区(邪馬台国=ヤマト)のちょうど真ん中にあることがわかります。

1:津田~〒573-0126

2:天王は第331話で書いた朱智神社~迦邇米雷王朱智神社があるあたり一帯は天王(地名:京都府京田辺市天王)です。天王は素戔嗚(スサノオ)のことです。

3:内里はウツシコオ(内色許男命)の名前の由来となったところです。

4:倉治は記紀に出てくる高倉下(タカクラジ)の名前の由来となったところです。

 私市、郡津もこの地区です。推古天皇は架空の天皇~交野市私市

 交野市郡津(コウズ)高津姫 ~岩船街道

5:御牧国~枚方・高槻  御牧国(ミマキ国)が邪馬台国

  イカガシコオ(伊香色雄命)とイカガシコメ(崇神天皇の母)の伊加賀もここです。

6:大住~大隅隼人 参照:第307話:大隅隼人は京都府京田辺市

7:禁野、中宮、山戸(ヤマト) 参照:第125話:禁野・中宮・ヤマト




上記より、素戔嗚(スサノオ=ウツシコオ)は津田と非常に関係が深いことが分かります。

津田の国見山に登って倭国(我が国:自分の国)すなわち魏志倭人伝がいうところの邪馬台国を見下ろしていたのです。


スサノオは津田の王(ツダノオ)です。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>


<国見山からの眺望>

国見山は標高およそ300メートル。見晴らしのよい日には六甲山や白く光る大阪湾が見え、大阪平野を渡って来る涼風は、汗ばんだ肌に快く感じます。

穂谷方面へと続く道の先には、市立野外活動センタがあり、途中から白旗池(しらはたいけ)や交野山(こうのさん)、くろんど池方面へのハイキングコースとなっています。津田方面からは、よく整備された登山道があり、途中、山桜を見上げる絶好の位置にウッドデッキが設置されており、森林浴を楽しむことができます。




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2件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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国譲り再考 武御雷 タケミナカタ 事代主 ミホツ姫 


私が生まれたのは、三島郡三島町三宅村 三宅小学校

中学・高校は高槻

職場は枚方市禁野にある病院


いずれも邪馬台国と関係のある地です。


大学は山科でした。ここはさすが邪馬台国とは全く関係ないだろうと、


古代日本において、忌部氏とともに神事祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。(かばね)は(むらじ)、八色の姓制定後の(かばね)は朝臣(あそみ・あそん)。


山科盆地の中央より西側にあり、四ノ宮川山科川(旧音羽川)の合流地点で、当時は山城宇治郡に属する。この地域は東海道から宇治街道へ抜ける分岐点、交通の要所であった。


物部、中臣、息長、賀茂、とかの言い出したのは、氏族は大宝の律令ができたあたりです。

みな中国大陸か朝鮮半島からの渡来者です。弥生人とは渡来人のことです。

もともとの日本にいた 蝦夷(エミシ)です。


山科本願寺 - Wikipedia


 山科区の地域は、芝町遺跡や中臣遺跡から発掘された土器、石器などにより、縄文・弥生時代から人々が暮らしていたことが分かっています。古くから奈良、大津、京都の中心部をつなぐ交通の重要な場所としてさかえ、近江大津宮に都を移された天智天皇のお墓などがあります。

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秀丸 遠嶽
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