第277話
古事記には不思議な記事が載っています。
雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った。
雄略天皇は第21代ですので、邪馬台国の時代よりもかなり後ですので、このエピソード自体は重要ではありません。重要なのは一言主は、事代主のことでないかと思われることです。事代主の「コト」には「言(言葉)」と「事(事柄)」の二字が用いられ、言霊信仰に基づくとされています。
一言主神は葛城神社(奈良県御所市森脇)に祭られています。鎮座の由来は詳細には記されていません。一言主神は迦毛大御神や鴨氏との関係性が考察されています。事代主神は賀茂氏に祭られたと考えられること、母神の系譜が不明なこと、託宣神であることから、事代主神は大物主神や味鋤高彦根命、一言主之大神などとの関わりが示唆されています。
事代主については、私は記紀の作者たちが神武天皇を創作する際に辻褄あわせのために味鋤高彦根命(アジスキタカヒコネ)をモデルに創作されたと思っています。そして事代主には重要な役割を与えました。国譲りです。
「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」と訊ねられた大国主神は、自分の前に息子の八重事代主神(やえことしろぬし)に訊ねるよう言った。これに対して事代主神が「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えます。
「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」この一言で大和朝廷(邪馬台国)の統治者が交代してしまったのです。この一言を言わせるために事代主は創作されたのです。そして事代主は一言主になったのです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
邪馬台国 家系図
葛城一言主神社
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