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三宅(屯倉みやけ)~三島郡三島町三宅

更新日:2023年12月20日

第181話


私の通っていた小学校は茨木市・三島郡三島町学校組合立「三宅小学校」という名前でした。当時は摂津市はまだありません。


三宅=屯倉(みやけ)は、ヤマト王権の支配制度の一つです。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられます。


ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語です。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになりました。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したようですが、詳しいことは分かっていません。大化の改新で廃止されました。


屯倉制度は、土地支配でなく、地域民衆の直接支配である。管理の仕方や労働力は多様であり、屯倉の経営は古墳の発達とも関係しています。これらの屯倉は大王自らの力で開発され経営されていました。屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地でした。


摂津市は1966年にできました。新町名を「三島市」とすると静岡県三島市と同名になることから、摂津市になってしまいました。なお三島町は1956年(昭和31年)9月30日 - 三島郡味舌町・味生村・鳥飼村が合併してできたものです。元は三宅村でした。摂津の誕生


味舌はマシタ姫(細姫=孝霊天皇妃)、鳥飼はスクナヒコとの関係がある場所です。

されにこの辺りの地図をみると、玉櫛(=玉櫛姫)、天王(=素戔嗚)、穂積、春日、五十鈴(崇神天皇妃)など記紀で登場する人物の宝庫です。本当の奈良はここです。


三宅村は、おそらく日本最初の三宅(屯倉)のあった場所です。なぜなら倭(ヤマト)屯倉は、垂仁朝や景行朝に大王自らが設置したと記紀に伝えられているもので、その地は現在の奈良県磯城郡三宅町の地を中心とした一帯であると推定されています。垂仁天皇は崇神天皇の子です。三島郡の三宅村は崇神朝のものでしょう。崇神天皇(ミマキイリヒコ)は疫病のが発生するまでは、この辺りを支配していた筈です。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。




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3 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 26, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

太田・黒田遺跡は和歌山県内屈指の弥生時代の遺跡です。この銅鐸は、昭和45年(1970)に遺跡東側の河川の改修工事に際して出土しました。高さ約30cmの弥生時代中期の外縁付鈕1式の4区袈裟襷文銅鐸で、結晶片岩製の舌が鐸身内側で発見されています。

 この銅鐸は、島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸のうちの4口と同笵であることが確認されています。

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tootake
Dec 25, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

http://mb1527.thick.jp/H160702.html#

 イザナミが住んでいたと思われる島根県広瀬町西比田殿ノ奥のすぐそばに金屋子神社があり、そのそばに民俗館がある。金屋子神話と古代史とのかかわりの調査のためにこの民俗館を訪問した。この日にはほかに客もなく、受付のおばさんにお茶やお菓子をご馳走になり、いろいろと話を伺った。大変ありがたかった。  金屋子神は当初日向から着たのではないかと思っていたが、調査した結果、金屋子神の出雲への侵入経路は播磨→吉備中山→印賀→比田であることがわかった。「この経路は吉備津彦の侵入経路そのものではないか」と思った。明らかに日向からではなく大和からの進入のようである。大和朝廷が鉄資源確保のためにその技術者を出雲に派遣したのではあるまいか。その技術者が金屋子神ではないのか。金屋子神は一族75人とともにこの地にやってきて方々に炉をつくり鉄生産をしたそうである。また、金屋子神は西を主とする神だそうであり、日向出身を伺わせる。おそらく、大和朝廷の祖先を日向一族とする技術者で朝廷から派遣されたものであろう。金屋子神は鉄生産に必要な3条件(良質の砂鉄・木炭・炉を作る粘土)がそろっているこの地を選んでやってきたそうである。  日向出身であるために出雲でも往古イザナミがいた地を訪れ、イザナミを祀り製鉄技術を広めたと思われる。奥出雲にイザナミ御陵が複数存在しているのもこの一族が作ったものであろう。その時期は倭の大乱の後であろう。近江の伊勢遺跡は倭の大乱後衰退しているが、ここに日向一族が住み着き、金属器生産を行っていたようであり、ここからやってきた可能性もある。  金屋子神の正体がこのようなものであることがわかってくると、日向から来たイザナミのこの地での存在が怪しくなってくるのであるが、イザナミ御陵の御墓山に孝霊天皇が訪問したという伝承があることから、数多いイザナミ御陵の中でもこの御墓山は倭の大乱以前に存在したことになり、真実のイザナミ御陵であろう。


H16.7.2調査

 孝霊天皇は出雲国進入後飯梨川に沿って進軍したと思われるが、それを裏付けるものに乏しかった。広瀬町石原に楽々布久神社があるということがある書物により判明したので、調査することにした。地図にて位置は確認したところ、安来平野の入り口にあり、安来出雲軍の拠点であると推定している能義神社周辺の丘陵地を襲撃するのに良い位置であると思われた。実際の状況を調査することにした。

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