top of page
tootake

中臣鎌足は豊璋(ほうしょう) 

更新日:6月19日

第352話~スサノオ・ウツシコオへの逆恨み


スサノオ(津田の王:ツダノウ)は高天原を追放され、ウツシコオの一族はアタ(賊)として文献上では、さげすむようになってしまいます。*下記

ウツシコオ:ツダノウは中臣氏=藤原氏の祖で高御産巣日神(タカミムスヒ=高木神)とされていたのにこれはどうしたことでしょう。おそらく、BC600年の遣隋使が原因でしょう。


第350話:遣隋使とウツシコオ で書いたように、倭国(日本)は遣隋使(けんずいし)でそうとう恥をかいたようです。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭され、また服制の不備などもあり失敗に終わったようです。この時の遣使は隋書のみに記録されており日本書紀には残されていません。失敗に終わったことが、日本書紀に記載されていない理由であると考えられています。


 森公章氏(東洋大学文学部教授:日本古代史)は「大恥をかいたことが、この遣使の日本書紀への不記載の理由であろう」とし、吉田孝氏(青山学院大学名誉教授:日本古代史)も「倭の使者は、どんなに恥ずかしい思いをしたことだろう。隋の広大な都、倭とは隔絶した文明を眼前にして、倭の使者の受けたカルチャーショックの大きさは、私たちの想像を絶するものがあったろう」と述べ、「推古朝の国制改革は、600年の遣隋使のカルチャーショックを、おそらくは起点としたのである」としています。


これは、ウツシコオ(内色許男命)が崩御したのち、倭国(日本)には、中国と外交ができる人物がいなかったためです。ウツシコオは、語学力、交渉力、様々な知識など、卓越した能力を持っていました。これは空海(弘法大師)が持っていた能力と同じです。ウツシコオは、空海のひいおじいさんです。参照:第318話:空海のルーツは内色許男命!


603年には冠位十二階の制定、604年に宮門出入りの際の礼制と憲法十七条の制定、605年には服制の整理が行われています。これによって外交儀礼を執り行うことがやっと可能となり、また相手国の外交担当者が自国の官品制と互換可能な官位制度が整えられたのです。


恥をかいた日本は、遣隋使(けんずいし)の失敗を誰かのせいにしたかったに違いありません。そこでかつて中国大陸(魏)に行ったことのあるウツシコオのせいにしたかったのではないでしょうか。


自分たち、先祖をおとしめるようにしたのは、中臣鎌足だと思れます。この中臣鎌足は百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子:扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)であるとする説があります。


だとすると、自分たちとは血が繋がっていないスサノオやウツシコオを文献上でおとしめたとしても不思議ではありません。


==============================

※阿多(アタ)は反逆者という意味です。牧尾一彦著 「邪馬台国と神天皇」p425には賊虜=アタ、賊とは悪人、虜とは敵を罵る言葉、阿多(アタ)は逆賊と書かれています。

日本書紀に仲哀天皇は(アタ:この場合は熊襲)の矢に中(あたり)て崩(かむあがり)ましぬとあります。

アタシ、アタ姫、はウツシコオの近親者です。阿多賀田須命~宗像氏

タケハニヤスの妻・母がアタとされています。

阿田都久志尼命(あたつくしねのみこ)は、天日方奇日方命の別名です。私は鴨主命(鴨王)=ウツシコオと同一人物ではないかと思っています。参照:第227話:天日方奇日方命

・神吾田鹿葦津姫(かむ・あた・かあしつひめ)こと木花開耶姫(このはなのさくやびめ)のことです。古事記では本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)、別名を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)、日本書紀では本名を神吾田津姫(かみあたつひめ)、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫(このはなのさくやびめ)です。

「神武天皇の最初の妻は吾平津媛(あひらつひめ)は、古事記では阿比良比売(あひらひめ)、日本書紀によれば、日向国吾田邑の人とされています。このブログでは上記の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と同一人物としています。参照:第204話:阿陀比売神社~木花開耶姫3



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>



閲覧数:95回4件のコメント

最新記事

すべて表示

4件のコメント

5つ星のうち0と評価されています。
まだ評価がありません

評価を追加
秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
6月18日
5つ星のうち5と評価されています。

宝賀寿男は、本来の高天原(所謂邪馬台国)は北九州筑後川中・下流域にあり、天孫降臨の地は現在の怡土郡早良郡(現糸島市、旧伊都国)辺りで[注釈 17]、葦原中国とは海神信仰の強い那珂郡奴国)のことであって、現在でいう出雲国ではないとする説を提唱した[43]。実際に奴国と想定される博多地域では志賀海神社安曇氏など海神族の色合いが濃く、出土した金印の鈕も海神族のトーテム[なぜ?]であるである[44]。また事代主神と建御名方神の国譲りは、『日本書紀』の神婚譚にも見えるように、実際には現在の奈良県(旧大和国、大神・磯城周辺)であったとされる[45]。実際に『出雲国風土記』には事代主神も建御名方神も登場しない。

ほかには、記紀神話における「出雲」を現実の出雲国だけではなく、ヤマト王権に帰順しなかったと思われる地域・部族の総称とする説もある[46]

いいね!

秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
6月18日
5つ星のうち5と評価されています。
いいね!

秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
6月18日
5つ星のうち5と評価されています。

日本書紀

第九段一書(二) - 経津主神と武甕槌神

天神は経津主神と武甕槌神を遣して葦原中国を平定させようとした


<時、2柱の神は「天には天津甕星(あまつみかほし)、またの名を天香々背男(あまのかかせお)という悪い神がいるので、まずこの神を征服してから葦原中国を平定しよう」と告げた。

天津甕星を征するための斎主神(いわいぬしのかみ)は斎之大人(いわいのうし)[注釈 9]とも言い、東国の檝取(かとり)の地に鎮座する。>


経津主神は岐神を先導役として、葦原中国を平定した。

服従しなかった者を斬り殺して、従った者には褒美を与えた。この時に帰順した首長は、大物主神(おおものぬし)と事代主神であった。

そして大物主神と事代主神は八十万神を天高市(あまのたけち=私市)に集めて、それらを率いて天に昇って忠誠心を示した。


高皇産霊尊は大物主神に「もし国神を娶れば、お前には謀反の心があると思ってしまう。だから、私の娘の三穂津姫(みほつひめ)をお前の妻とさせたい。八十万の神々を率いて、永遠に皇孫(すめみま)を守護し奉れ」と勅して、下界に帰り降らせた。


『出雲国造神賀詞』では記紀と少し異なる国譲り神話が語られている。

高天原を治める高御魂命(高御産巣日神)が出雲国造の遠祖・天穂日命を国土の視察に派遣した。天穂日命は地上をくまなく視察した後、「豊葦原水穂国は、昼はハエのように喧しく、夜は炎のように光り輝く荒々しい神々が蔓延り、岩も木も青い水の泡までもが物言う荒れ狂う国である」と報告し、自分の子である天夷鳥命(あめのひなとり)に布都怒志命(経津主神)を副えて地上へ派遣した。


また別名の天夷鳥命の名義は「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」の意であるから、建比良鳥命と同一の神格と考えられる[1]。


大和岩雄(1989年)は、『古事記』において大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は中臣氏(後の藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしている。この説によると鹿島に祀られている神は元々は多氏が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、道祖神的な性格を持ったの神であったが、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入した[30]

編集済み
いいね!

秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
6月17日
5つ星のうち5と評価されています。
いいね!
bottom of page