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交野ヶ原と桓武天皇

更新日:2024年12月9日

第525話 #交野山 #長岡京 #交野ヶ原 #桓武天皇 #邪馬台国


前回:高千穂は交野山(大阪府交野市)交野山は桓武天皇から敬まれていた神聖な山なのです。と書きました。


桓武天皇は天智天皇の孫の白壁王 (光仁天皇)と新笠女の子供、 山部王として誕生しています。母親の新笠女は百済帰化人で平城京の下級官人の和史乙継と土師宿禰真妹の娘として生まれており、 この真妹は京都の桂にある大枝に住む土師氏の出です。そのため、 桓武天皇は母親の出身地である乙訓郡(京都府)の大枝辺りで育ったのではないかとされています。


交野台地と枚方台地の一部を 含めた地域を総称して交野ヶ原と呼ばれていました。

桓武天皇はこの交野ヶ原で何度も鷹狩をしています。交野ヶ原には渡来系である母方の一族が暮らしており、 桓武天皇と百済王との繋がりを示す資料としては、続日本紀 の延暦9年に「百済王らは朕の外戚である」 と自ら述べています。


枚方市には百済神社(百濟王神社)があり、第476話:金華山と百済王敬福では、百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、百済王氏の居館を難波から河内(枚方市中宮:現在の百済神社)に移したとされています。


第519話:六角堂と平安京では、桓武天皇と関わりの強い人物として藤原北家の種継ことを述べました。種継は桓武天皇と同じ年生まれで、 母親は秦氏の人で、桓武天皇が育った乙訓郡の隣の秦氏の本拠地葛野郡辺りで育ったとされています。 桓武天皇と種継との関係は親密だったものと思われます。このことが、 長岡京遷都へと繋がっていくことになります。


長岡京の中軸線を南に延ばしたときの交野ヶ原のいくつかの伝承に関わる場所にあたります。長岡京の北の秦氏の氏寺、 広隆寺にあたりから直線を引くと、南は交野ヶ原の龍王山にあたります。 この龍王山は冬至の太陽が昇る方位にあり、交野山は三輪山と同様の役割を担っていた可能性があります。奈良県の三輪山は山自体が信仰の対象で、農耕の神として信仰を集めています。 交野山や龍王山は雨乞いなど天からの恵を授かるために祈りを捧げた所とされています。


第497話:敏達天皇は台与(豊)では、考古学者の森浩一氏は、日読み=冬至・夏至の祭祀をとは、三輪山と太陽の位置関係を巨大な自然のカレンダーとして観測することとされておられます。


枚方市役所あたりから冬至の方位に交野山があります。そこから冬至の方 位には龍王山があり長岡京の中軸線の南には交野ヶ原があり、天体に関する伝承や寺社などが存在しています。 そ れらは郊天祭祀にとって重要な冬至の太陽が昇る 方位に関連づけられています。


この祭祀を行ったのは桓武天皇と曽孫の文徳天皇だけで、 また、 この祭祀は 「天武系王朝から天智系王朝への皇統の交代に伴う政治儀礼の変化としてとらえるべきではなく、 宗教思想の変化の象徴として把握」 できるとの指摘もあります。


交野ヶ原の天体伝承が渡来人と関連があり、交野ヶ原が舞台とされている記紀にも天体に関わる神話が存在しています。饒速日尊が他の神よりも先に地上に降り立ち、 その場所が河内国の哮ヶ峰だとされる天孫降臨の話です。 渡来人がこの地に入るより前から日本の土着の神話が天界との関わりを示す話を残しているといえます。


{参考文献}民間伝承の地域的特性に関する歴史地理学的研究 -交野ヶ原における天体伝承を事例に 中村 好恵 (佐々木高弘ゼミ) h2011_01.pdf


  


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






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