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伊勢津彦はタケミナカタ

更新日:7月6日

第354話~タケミナカタは瀬戸内海の覇者


前号で、タケミナカタは饒速日としましたが、伊勢津彦と建御名方神(タケミナカタ)は全くの同一人物であることが分かりました。


本居宣長は古事記伝で伊勢津彦神は建御名方神の別名であるとし、神武天皇の時代とする記述は後世の誤伝であるとする説を唱えています。これは天津神に反抗するも勝てず東国(諏訪)へ逃亡する姿が似ていることから来る説です。


姫路市林田町上に伊勢という地名があります。播磨国・風土記の伊勢野では、次のように書かれています。


伊勢野と名付けるわけは、この野に人家ができるようになると、そのたびに安らかに暮らすことができなくなる。そこで衣縫猪手(きぬぬいのいて)・漢人刀良(あやひとのとら)らの祖は、ここに住むことにした時、社を山麗に立ててうやまい祭った。

山の峰においでになる神は、伊和大神のみ子の伊勢都比古命・伊勢都比売命である。

これから以後は家々は静かに安らぎ、ついに里ができるようになった。そこで伊勢とよぶ。


この地に伊勢都比古命を祀ったと言うのは、瀬戸内周辺が伊勢津彦の勢力圏だったからこそ、伊勢津彦を祀ったと思われます。


伊勢津彦(伊勢都比古命)=伊和大神が伊勢津彦の父に当たるのですが、実は、伊和大神は、大汝命(大己貴神)=大国主命の事だとされています。

伊和神社(伊和坐大名持魂神社:兵庫県宍粟市一宮町須行名)の社伝では、伊和神=大己貴神(大汝命)=大国主命であることが分かります。したがって、伊勢津彦(伊勢都比古命)は大国主命の子です。


阿波地方(徳島県)には「名方郡」という、建御名方神(タケミナカタ)の名を冠する地名が残っています。徳島県名西郡石井町浦庄諏訪には、多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社があり、祭神は、建御名方命が祀られています。社伝によると、信濃諏訪郡の南方刀美神社(諏訪大社)は、多祁御奈刀弥神社から、宝亀10年(779)から移遷されたとされています。つまり、諏訪大社の起源が、この阿波の多祁御奈刀弥神社にあります。ちなみにBC720年五日本書紀が完成しています。


阿波の国は、元々、建御名方神(=伊勢津彦)が治めた土地だったの隠すために、タケミナカタが出雲から諏訪に逃れたように記載し、わざわざ諏訪大社を建てたのです。大住の住人を九州の大隅に移住させ鹿児島八幡宮(大隅正八幡宮)を建てたのと同じやりかたです。


このように名方郡は、建御名方神と縁の深い土地だと言う事が良く分かります。

建御名方神が瀬戸内海から追いやられ東に移されてしまったのです。


「建角身命(八咫烏)は伊勢津彦の子」とされているのは、伊勢津彦の謎1 出雲神の上古系譜 | 女神物語 ー弥生神代の考察ー (ameblo.jp)

です。

  

伊勢津彦の子孫の一は建角身命一族として、伊勢・伊賀の諸処に祀られ、八咫烏伝承を生みます。伊勢の名前の由来は、"伊勢津彦(いせつひこ)"という神の名前に由来します。


「日本書紀」の垂仁天皇条:五十鈴川上の宮を「磯宮」とし、現在の伊勢神宮のことを指していることから、「イソ(磯)」が変化したがあります。~日本語源由来辞典


それですべてが分かりました。イソはイソタケルです。阿曇磯良(あづみのいそら、安曇良)のイソです。ウガヤフキアエズ:天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)の「なぎさたけ」と「いそたける」は同じ意味です。渚は名草(和歌山市)です。渚はイソ(磯)です。


伊勢津彦は、イソタケル(五十猛)、ウツシコオ(内色許男命)。そしてタケミナカタ(南方刀美神です。タケミナカタは淀川・河内湖から鴨川に至る河川の支配者であったと思われ、三島の溝杭としてきましたが、実際は瀬戸内海の覇者でもあったのです。

タケミナカタは南方刀美神と書くのが正しく、南方は地名です。大阪府大阪市淀川区西中島




※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
19 juin
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