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八咫烏もウツシコオ

更新日:3月31日

第274話


賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、別名は八咫烏、八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)。山城の賀茂氏(賀茂県主)や葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神です。賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされています。


上記より、八咫烏は道案内という大きな役割を持っていたことがわかります。だとすると前回の珍彦(うずひこ)と道祖神で書いたように八咫烏は珍彦=猿田彦=塩土老翁と同じ役割を持っていたことになります。つまり八咫烏もウツシコオなのではないでしょうか。


山城国風土記によれば、神武天皇を先導し、大和の葛木山に宿った後、そこから遷って山代国の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、山代河(木津川)を下り、葛野河(桂川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点に至り、賀茂川を上り、久我国の北山のもとに鎮まったとされています。久我とはあのクガミミ:陸耳御笠(くがみみのみかさ)、タケハニヤスが乱を起こす前に暗殺された人物です。久我神社の祭神は賀茂建角身命です。久我神社と紀伊


八咫烏は古事記では高木大神によって、兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に神武天皇への帰順を求めるために遣わされますが、日本書紀では天照大神によって兄磯城・弟磯城兄弟にそれぞれ帰順を求めます。その後、その功が労われ、八咫烏の子孫は葛野主殿縣主(かづののとのもりのあがたぬし)になっています。ちょうどこの時期に珍彦ことヒコユキ=ウツシコオは饒速日一族の大和朝廷(邪馬台国)の一員となったと私は思っています。ウツシコオ(内色許男命)が孝元天皇宰相となったのです。


熊野三山では八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされています。熊野は「呉の勝」一族が最初に定住した場所です。

神話において、八咫烏は熊野の神の使いとしても活躍します。戦国時代には、紀伊国の雑賀衆(雑賀孫一)を治めた鈴木家の家紋・旗ともなっています。八咫烏は和歌山県出身です。


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。


 




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