第333話
京都の八坂神社の創建は、貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことに始まるという説があります。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされますが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神です。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説がありますが、これも定説にはなっていません。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとされています。
祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられています。
ここからは、妄想です。
・山城国愛宕郡 (おたぎぐん)は、タケハニヤスが根拠地としていた地です。
・椿井文書に基づく社伝では朱智神社から京都の八坂神社へ勧請したとしていますが、当然ながら八坂神社ではそのような由緒を伝えておらず、「榊遷し」も記録がありません。
しかし、かつては毎年「榊遷し」の行事が行われていたと伝えられています。
参照:朱智神社2~椿井文書
・ある時期から、記紀では素戔嗚が再評価され、ウツシコオ=タカミムスビ(高御産巣日神)から高木神に格下げされます。呼称が天若日子派遣の場面を境に急に変化する点も問題とされている。
・京都府京田辺市の朱智神社から、京都市の八坂神社に素戔嗚を勧請した時期とタカミムスヒが格下げされた時期的にも矛盾はありません。720年5月に日本書紀が完成し、8月に- 藤原不比等が没しています。素戔嗚の神話が一般に広がるのに150年かかるとしたら八坂神社に素戔嗚が祭られるのが貞観18年(876)というのは、ちょうどよいタイミングです。
・出雲神話で素戔嗚が乱暴者でのがあったのが、ヤマタノオロチを退治した英雄に祭り上げられます。
・山城国愛宕郡は出雲です。実は京都市内に出雲のなごりが残っているところがあります。それも京都に都が来る前からの話です。京都市内、場所は北区になりますが「出雲路(いずもじ)」という地名があります。市内に賀茂川と高野川が左右から合流する地点があり、そこから鴨川になります。京都に残る出雲の国 | Kyoto love Kyoto. 伝えたい京都、知りたい京都。
私はこれまで様々な人物をタケハニヤスに当てはめてきました。
・タケハニヤスは、京都府愛宕郡 (おたぎぐん)を根拠地にしている。
・タケハニヤスは、三島の溝杭(河川)管理・支配者である。三嶋溝抗命たち(複数)
・タケハニヤスは、カモ族のトップでしたが、突然、大彦によって滅ぼされる。
・タケハニヤスは孝霊天皇の皇子である。~素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇です。
上記によりスサノオもタケハニヤスの候補です。そしてタケハニヤスはウツシコオ(内色許男命)かもしれず、素戔嗚=ウツシコオの可能性も出てきました。
牛頭天王の牛頭からは、頭に角が生えた人=ツヌガアラシヒト=アメノヒボコを連想してしまいます。アメノヒボコはウツシコオです。
関連項目:スサノオは津田の王
<タケハニヤスの乱>
:タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)
:タケハニヤスの乱3 ~小人国
:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
NO.3
ウツシコオと魏
アメノヒボコはウツシコオ~投馬国
投馬国とウツシコオ~丹波(但馬)
No.2
この「山代の内」とは、和名類聚抄にある山城国綴喜郡有智郷(現・京都府八幡市内里)を指すとされています。ここには、内神社が鎮座しています。
内色許男命はの出身地について内里であるとされています。天王山の麓で木津川、淀川、桂川が合流地点にのすぐそばが内里(京都府八幡市内里:内はウチ)です。
この辺りには、明治時代までは、巨椋池というかなり大きな湖がありました。ウチは宇治であるともされています。かつては巨椋池周辺が内(ウチ:宇治)であったと思われます。
宇治彦、珍彦(ウヅヒコ)はウツシコオの別名です。さらにウヅヒコ)は宇豆比古は、椎根津彦
鴨王、黒速、弟磯城(オトシキ)であるともされています。
磯城は奈良県にある地名ですが、大和朝廷が奈良県に移動する前は、大阪府守口市が磯城(志木)であったのです。このことはウツシコオ(黒速)が磯城の県主=十市の県主であったことからも確認できます。十市の県主は大目ですが、大目というのは実は大日(ダイニチ)の誤植です。
十市の県主はの娘である細姫(別名:マシタ姫)は孝霊天皇の妃です。
そして守口市には、スサノオがクシナダ姫と住んだといわれている八雲という地名もあります。
大日、味舌(摂津市)、八雲はお互いに近い範囲に今でありますので確認してください。
そして奈良という地名も、今の奈良県ではなく、大阪府茨木市、そしてウツシコオの内里も奈良であったのです。この二つの奈良は今でもありますので、自分でも調べてみてください。
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子