第168話
出雲の一宮は、熊野大社です。では二宮はどこの神社と思って調べて見ると出雲には二宮は存在しないそうです。前回述べた佐太神社を二宮とする説もありますが、これも後付けの取って付けたような説です。本当は出雲大社が二宮だったと思います。そしてそのことは絶対に言ってはいけないことだったのです。
熊野大社が先に在って出雲大社が後から作られた(創作された)のです。出雲大社は元々はキツキ(杵築)神社でした。出雲大社となったのは明治4年です。
出雲以外にも杵築という地名はあります。キツキは、臼と杵~ヤマトタケル2 で書いたように、朱石をすりつぶすために使われた杵によるのではないかと思われいます。
この石人を臼(うす)と杵(きね)に見立て、「臼杵」という地名はこの石人から起こったものであるというものです。しかしこの見立ては間違っています。
福岡県の糸島市にある糸島高校では、歴史部というクラブがあり、泊熊野遺跡から出土した甕棺が展示されています。甕棺の内部は朱の粉で真っ赤に塗られています。また、大根のような形をした石杵と石臼も展示されており、石杵の先端は赤みを帯びており、この石杵と石臼は、朱石をすりつぶすために使われたのではないかと思われています。泊熊野という地名は熊野=素戔嗚を連想させます。臼と杵~ヤマトタケル2
泊熊野遺跡の熊野は、出雲の熊野大社との関連を疑わせます。大分県の北東部に杵築市があります。この市の近くに、宇佐神宮があります。ちなみに杵築大社(出雲大社)も、宇佐神宮も、他の神社の参拝方法とは違い、二拝四拍手一拝です。
出雲大社は古来より、杵築(きづき)の郷に由来して、杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれてきたといいます。現在の住所は、島根県簸川郡大社町杵築東宮内です。
そして熊野大社の祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎ・くまのの・おおかみ・くしみけぬのみことと)称える素戔嗚尊とされています。この熊野神社になぜ櫛御気野命が祭られているか疑問に思っている研究者がいるそうです。しかし、私にはよくわかります。
櫛御気野命とは、三毛入野、すなわち長脛彦のことです。出雲の地に落ち伸びたウマシマジが真っ先に祭りたかったのは、自らが葬り去った長脛彦です。
このプログでは、長脛彦は三毛入野はとしています。長脛彦は五瀬命!?
三毛入野は神武(創作された神武)の兄の一人です。三毛入野は周防(山口県)の周防国熊毛郡の地方豪族です。三毛入野もやはり鉱山の経営者だと思われます。家津美御子(けつみみこ)~熊野
いつも参考にさせてもらっている上垣内先生によると、出雲の熊野大社の祭紳は櫛御気野命(クシミケヌ)で和歌山の熊野の家都美御子(ケツミミコ)と同じ神だと思われます。
繰り返します。神武の兄とされる三毛入野は熊野三山の家津美御子(”ケ”ツミミコ)、出雲の熊野の櫛御気野命(クシミ”ケ”ヌ)と同じ神(=同じ人物)と思われるのです。そして櫛御気野命(クシミ”ケ”ヌ)は長脛彦です。ウマシマジが殺したとされる長脛彦です。
※これまでの記事はこちらです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。
熊野大社(出雲)
別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々である。神世七代、天津神・国津神、三貴神(地神五代)などに先行する神。
『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも独神として成って、そのまま身を隠したという[1]。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 天の生産・生成の「創造」の神。神産巣日神と対になって男女の「むすび」の男を象徴する神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 地の生産・生成の「創造」の神。高御産巣日神と対になって男女の「むすび」の女を象徴する神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)- 活力の神
天之常立神(あめのとこたちのかみ)- 天の永久性を象徴する神
これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。別天津神の次に神世七代の神が現れた。
スサノオはなぜ国津神なのか。
孝霊天皇の失策は特に見当たらない。強いて言うなら、タケハニヤスの乱くらい。
タケハニヤスが実子なのか?
ウマシマジが出雲に行ったことをスサノオに転嫁している。
神庭で発見された銅鐸・銅剣~大国主が埋めたとされているが、、、
出雲に実際に行ったのは、ウマシマジだけ。
日本神話において、国津神がニニギを筆頭とする天津神に対して国土(葦原中国)の移譲を受け入れたことを国譲りとして描かれている[1]。
これはヤマト王権によって平定された地域の人々(蝦夷、隼人など)が信仰していた神が国津神に、ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられる[1]。国津神については、記紀に取り入れられる際に変容し、本来の伝承が残っていないものも多い[3]。日本書紀ではある文(『日本書紀』の大半の巻に「一書曰」「或本云」など)として伝承等を引用しているが、その元の記録文書は後世では失われた[3]。
漢字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」(てんじんちぎ)、略して「神祇」(じんぎ)とも言う[1][6]。「天神地祇」「神祇」という呼称は中国の古典に見え、それが出典という説が存在するが[7]、日本のものとは概念が全く異なる別ものという異説も提示されている[1]。
なお高天原から神逐されたスサノオや、その子孫である大国主などは国津神とされている[2]。
別天津神
造化三神…天之御中主神、高皇産霊神、神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神
神世七代
国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神・須比智邇神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神・伊邪那美神
主宰神
天照大御神
その他
少名毘古那神、天忍穂耳命、邇邇芸命、思金神、建御雷神、天手力男神、天児屋命、天宇受売命、玉屋命、布刀玉命、天若日子、天之菩卑能命など
国津神
主宰神
大国主神
大国主の御子神
阿遅鉏高日子根神、下照比売、事代主、建御名方神、木俣神、鳥鳴海神
大国主の配偶神
須勢理毘売命、八上比売、沼河比売、多紀理毘売命、神屋楯比売命、鳥取神
その他
椎根津彦、須佐之男命、櫛名田比売、大物主神、久延毘古、多邇具久、大綿津見神、大山津見神、宇迦之御魂、大年神、木花之佐久夜毘売、玉依比売、豊玉毘売、八束水臣津野命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、伊勢津彦、洩矢神、千鹿頭神など
孝霊天皇伯耆遠征
倭の大乱関連地図
日野郡誌
『日野郡史』(日野郡自治協会編・名著出版発行)の「第四章 神社」の部分に『伯州日野郡染々福大明神記録事』
「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六 二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一 年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二 月八日二帝崩御也・・・・・・」
これによると,孝霊天皇は孝霊45年(171年)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿 いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また,孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したとい う伝承もある。13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが古事記・日本書紀は黙して語らない。
「日本上代の実年代」の年代基準としている開化天皇の没年(245年)より,半年一年の計算で孝霊45年と孝霊71年を日本書紀の年数によって 計算すると孝霊45年は171年,孝霊71年は184年となり,梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178~183)とまさにぴったりと一致 している。同時に開化天皇と孝元天皇の日本書紀の紀年は即位からの紀年となっていることになる。
この伝承をはじめ中国地方(東倭・吉備国・出雲国・伯耆国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在している。年代計算により、 この伝承が倭の大乱に関連していると思われる。まず、伝承面から何が起こったのか考えてみよう。
第2回神宝検校
古代史の復元による年代では、孝霊45年(171年)は、まだ孝安天皇の時代であり、孝霊天皇は即位していない状況である。この年は孝安89年で、第2回目の神宝検校のあった年と推定している。
日本書紀の垂仁26年にも出雲神宝検校が記録されている。
「天皇は,たびたび使者を派遣して出雲国の神宝を調べさせたが,はっきりと申すものがいないため,物部十千根大連を派遣させて調べさせた。」
垂仁26年も崇神60年と同様に同じ干支の孝安天皇の時代の記事と推定すれば、孝安89年(AD171年前半)となる。同時にこの年は孝霊45年で、日野郡誌によれば、第7代孝霊天皇が、伯耆国を訪問した年となっている。両者には深い関係が考えられる。
孝安天皇がAD155年に一度解決したのではあるが、AD171年に再び神宝検校を行ったのはなぜであろうか。出雲に派遣されたと思われる孝霊天皇(以降即位前なので楽楽福命とする)は、この時まだ、即位前であり、孝安天皇崩御の176年まで出雲に滞在していたようである。皇太子である楽楽福命が6年もの間、都を空けるとはただ事ではないことを意味している。この第2回神宝検校は余程差し迫った何かがあったと考えられる。
孝安天皇にとっての出雲国の最大の危惧は、素盞嗚尊祭祀の強い地域と連動して東倭が独立することである。出雲国がどこかの国と連携を取っていることが最大の危惧となる。それはどこの国であろうか。
月支国来襲
そのヒントとなるのが孝霊天皇61年(修正178年)の日御碕神社(島根県出雲市)の記事である。
「孝霊天皇61年 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。」
孝霊天皇61年は、179年前半であり、新羅本紀にある倭人が新羅に侵入した年は179年後半である。これらの記事が真実を伝えているとすれば、互いに関係があることになる。
月支国は辰王が都するところといわれているが、どこにあった国であろうか。
『後漢書』馬韓伝には月支国は次のように記されている。
韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰(弁韓)。馬韓は西に在り,五十四カ国。その北に楽浪,南に倭と接する。辰韓は東に在り, 十二カ国、その北に?貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二カ国、その南に倭と接する。およそ七十八カ国。伯済は、その一国なり。大 領主は万余戸,小領主は数千家を支配する。各々に山海の間に在り、土地は合わせて方形四千余里、東西は海が限界をなしている。いずれも昔の辰国である。馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。その諸王の先祖は皆、馬韓の族人なり。
この当時倭は現在の韓国の領域であり、その北に韓が存在している。月支国は韓の東側にあるので、現在の北朝鮮領域の南東の海岸沿いにあった国と考えられる。新羅国の北にあった国と考えられる。新羅国と月支国との争いは伝えられていない。
この頃の朝鮮半島はどのような状況にあったのであろうか。朝鮮半島の現韓国の領域は倭国の領域であった。素盞嗚尊が統一した結果、倭国の一領域になっていたのである。朝鮮半島に伝承がほとんど残っていないために、この当時の朝鮮半島が朝廷の支配下にあったのか東倭の支配下にあったのかが定かではない。しかし、出雲国との関係が深くなることを朝廷が恐れていることからに朝廷に所属していたのではないかと考えられる。
倭国内の新羅国ではあったが、次第に独立色を強めてきており、朝廷としても新羅国を警戒し、貢物を要求するということは十分に考えられる。建国したばかりの新羅国は大和朝廷からのさまざまな干渉を嫌い、次第に気持ちが朝廷から離れていったのであろう。その北隣りにあった月支国とはこのようにして同盟関係になっていった。新羅国は日本列島内の出雲国とも使者を交換し出雲国とも仲良くなっていったのである。
これらの状況より、倭の大乱に至るまでの経過を推定してみよう。
百済建国と出雲と新羅の接近
新羅建国は144年である。当初は倭国領域内にできた自治領域だったのである。しかし、次第に力をつけてきたために、大和朝廷から警戒されることとなった。大和朝廷としては毎年貢物の献上があれば、朝廷に従っている証拠として安心していられたのであるが、この頃より不作続きであり、新羅としても朝廷に貢物を送ることができなくなっていったのである。朝廷は新羅から貢物が届けられないのを朝廷の支配から離れるのではないかと危惧し、新羅に圧力をかけた。
西暦 孝霊 半年干支 中国干支 日本 半島暦 百済 新羅
164 31 32 甲辰 癸卯 甲辰 太瓊命を皇太子に決定・年26(孝安76) -18 温祚即位・百済建国
165 33 34 乙巳 乙巳 丙午 -16 靺鞨が北辺を侵す。急襲
166 35 36 丙午 丁未 戊申 -14 日食(6年)
167 37 38 丁未 己酉 庚戌 -12 靺鞨が攻めてくる
168 39 40 戊申 辛亥 壬子 倭迹迹日百襲姫生誕 -10 靺鞨が北辺を侵す(10年)
169 41 42 己酉 癸丑 甲寅 -8
170 43 44 庚戌 乙卯 丙辰 -6
171 45 46 辛亥 丁巳 戊午 孝霊天皇山陰遠征(孝霊45)日野郡誌
倭迹迹日百襲姫大和出発 -4
172 47 48 壬子 己未 庚申 倭迹迹日百襲姫、東讃引田の安戸の浦上陸し、水主神社の地に滞在。 -2 楽浪が攻めてきた。
靺鞨が攻めてきた(18年)
173 49 50 癸丑 辛酉 壬戌 1
174 51 52 甲寅 癸亥 甲子 孝安天皇崩御 3 楽浪軍来襲
175 53 54 乙卯 乙丑 丙寅 孝霊天皇即位
大吉備諸進命没 5
176 55 56 丙辰 丁卯 戊辰 7 馬韓が弱体化(26年)
177 57 58 丁巳 己巳 庚午 9 馬韓滅亡(27年)
178 59 60 戊午 辛未 壬申 11
179 61 62 己未 癸酉 甲戌 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せり 13 倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。
百済が164年に建国された。百済は建国直後より靺鞨の攻撃を頻繁に受けている。靺鞨(沿海州に本拠)より頻繁に攻撃を受けるということは、靺鞨の南に接するように百済が存在していたことを意味している。百済は遼東の東側で遼東半島周辺で建国したが、すぐさま東に勢力を伸ばしたのであろう。そのために、靺鞨と衝突することになったのである。この支配領域は馬韓の領域であり、その東には月支国があったと思われる。百済はそれらの領域に侵入してきたのであろう。百済の侵入により、月支国は危機的状態になったであろう。月支国を代表とする辰韓地域はこの状態を打破するために新羅と手を結ぶことになった。新羅は大和朝廷に圧力に対抗するために、辰韓と手を結ぶことにした。新羅は急激に勢力を拡大することになった。
その新羅と出雲が使者を交換し友好を深めようとしているのである。大和朝廷としては、新羅と出雲が手を結ぶことは何としても阻止したいという思いがあった。
孝安天皇は出雲国・新羅国・月支国が関係を深めていくことに危機的なものを感じてきた。そのままにしておくと、折角まとまった日本列島が分裂する懸念があったのである。
孝安天皇はそれまでの天皇と違い出雲関連の神社の創祀を行っていないのは、孝安天皇の即位したころより、出雲が新羅に接近していったために、孝安天皇の気持ちが出雲から離れていったのであろう。155年出雲神宝を検校することにより、出雲に大和朝廷に反抗する意思がないことが分かって、朝廷は一度は手を引いたのではあるが、新羅との接近は看過できないことであった。
出雲は当時の東倭領域の盟主国である。この当時の東倭の領域は現在の中国地方と北四国地方である。出雲国が祭祀を強めるとこれらの国々が出雲を中心としてまとまるだけではなく、素盞嗚尊信仰の強い北九州地方まで東倭に取り込まれるようになり、それが、新羅国・月支国と連合を組めば朝廷としては取り返しのつかないこととなるのである。
鬼の出没
この時期、鏡などの宝器は共同体の持ち物になっていて墓も副葬品がほとんどない状態であり、強力な地方支配者がいたとは思えない。 通常反乱が起こると、その地方の有力者を襲いその支配権を強奪するというものであるが、その対象となる支配者はいなかったのである。この場合、あるムラあるいは集団が生活の苦しさに負けて、周辺のムラから食料などを強奪するということが考えられる。そのような集団は一度そのようなことに手を染めてしまえば、次々とそれを繰り返すことになる。 この地方に存在するさまざまな鬼伝承は、その地方の人々を苦しめているというもので、まさにこれらの略奪集団と重なる。 これらの人々を鬼として言い伝えたものではないかと思う。
地方に支配者がいれば、それを取り締まるわけであるが、この地域にはいなかったため、それを取り締まる組織は存在しない。 治安維持をするとすれば、出雲振根であろう。しかし、彼はこの当時朝廷と素盞嗚尊祭祀の強化について交渉中であり、また、祭礼強化の方針で鬼対策に臨み、武力による治安維持はしなかった。 そのため、出雲中心域以外の瀬戸内海沿岸地方及び山陰地方で略奪集団(鬼)が出没するようになったと推定される。山賊だけではなく海岸沿いに高地性集落が多いことから、桃太郎の鬼ヶ島の鬼退治のように、この鬼たちはどこかの島を根城とした海賊のようなものも含まれるであろう。後の瀬戸内水軍はその子孫かもしれない。朝廷としても略奪集団をそのまま放置していたのでは朝廷から人心が離れ国内騒乱の基となりうるので、この地域を朝廷直轄地にしようと思ったのではないか。出雲振根も承諾するはずもなく出雲と大和の全面戦争になったと思われる。このときの孝霊天皇一族の地方平定は、このような略奪集団の鎮圧も兼ねたものであったのではないだろうか。伝承となって伝えられている鬼の中にはこのような略奪集団もいたであろうし、 出雲に協力して朝廷軍を攻撃した集団もいたであろう。
孝安天皇は、この状態を打破するには、東倭領域を大和朝廷の支配下に組み入れるしかないと判断した。東倭地域は神武天皇即位のとき、素盞嗚尊の聖地であることを理由として自治を認めた経緯がある。これを覆すわけであるから、出雲の猛反対が考えられ、この交渉は難航することが予想された。
この決断に至った孝安天皇は、171年(孝霊45年)、当時の皇太子であった楽楽福命(後の孝霊天皇)に、山陰地方に派遣して、東倭が大和朝廷の支配下に入るように交渉させたのである。これが、日野郡誌の記事であろう。
東倭併合作戦
東倭は神武天皇の即位時の約束により自治が認められていたのである。これを改めるには相当な反発が考えられる。それを実行するにはどのようにすればよいのかを検討したと思われる。
各地域に有力者を派遣し、鬼退治をして、各地域の人々の気持ちを朝廷に向け、東倭に所属している国々を朝廷の支配下に入るように勧める。そうすれば、多くの国々が朝廷の支配下に下るであろう。また、生活が厳しいので人々の心が荒廃するので、技術者を派遣して農業術を向上させ食糧の生産量を上げることを考えた。
その結果、吉備国をはじめとする山陽地方には楽楽福命の兄にあたる大吉備諸進命を派遣し、讃岐国をはじめとする北四国地方には 倭国香媛(他に皇子がいたと思われるが不明)及び倭迹迹日百襲媛命(後の卑弥呼)を派遣することに決定した。
そして、最も難しいのが出雲本国へ送る使者である。重要な交渉となるので、使者となる人物は天皇自身か、それに準ずる程の人物でなければならない。しかし、孝安天皇自身は東日本地域や九州地方の統治があるので動くわけにはいかない。よって、皇太子である楽楽福命(後の孝霊天皇)に白羽の矢があたった。楽楽福命を出雲国に派遣することに決定した。
孝安天皇は因幡国・伯耆国に出没する鬼退治をして、これらの国々に朝廷の支配下に下らせ、最後に出雲国と交渉し、東倭を解体し、朝廷の支配下に降るように交渉するように楽楽福命に命じた。
楽楽福命伯耆国派遣
日野郡誌から楽楽福命の伯耆国への経路を推定すると次のようになる。
楽楽福命はAD149年、室秋津宮(御所市室1322の八幡神社の地)で孝安天皇の第二皇子として誕生した。AD164年(孝安76年))孝安天皇より、 皇太子として決定された。この時、宮を庵戸宮(田原本町黒田法楽寺境内)と決定した。倭国香媛を妻に迎え、AD168年後に卑弥呼である倭迹迹日百襲媛命が生誕した。
AD171年孝安天皇より、山陰地方遠征を命じられた。東倭を併合するための重要な役割である。地方の人々から大和朝廷は頼りになるということを示さなければならないので、楽楽福命は出雲と交渉すると同時に地方に跋扈している鬼を退治せよという命令を孝安天皇から受けている。楽楽福命は軍を率いて、庵戸宮を出発し、琵琶湖を経由して、敦賀気比宮に達した。日本海岸を西に向かった。
鳥取県鳥取市の南はずれの河原町に霊石山がある。ここに伝わる伝承では,「天照大神が西征の途中,ここに居を移し・・・」とある。 西征とは東から来たことを意味し,大和からと考えられる。霊石山がその途中であるということは,最終目的地が出雲周辺であることが想像される。大和と出雲の騒乱は倭の大乱以外にはなく、これは倭の大乱を表しているのであろう。天照大神は楽楽福命と思われ ,この伝承は楽楽福命のこの巡幸のことを伝えていると思われる。霊石山より少し西にある青谷上寺地遺跡ではこの頃の戦闘の後と思われる銅鏃が 突き刺さったままの人骨が4点ほど見つかっている。このときの戦闘かもしれないし、この時期、地方に鬼が出没していたので鬼との戦いかもしれない。楽楽福命は若狭から鬼を退治しながら、因幡国の霊石山に一時留まったと考えられる。
因幡国の人々から隠岐の黄魃鬼(コウバツキ)がおり、因幡国にやってきて悪事をはたらくとの情報が入ってきた。楽楽福命の目的は東倭を大和朝廷の支配下に組み込むことなので、因幡国の人々から受け入れてもらう必要があった。そのために、黄魃鬼を退治したのである。黄魃鬼退治後、隠岐から日吉津に上陸した。
孝霊山の伝承
孝霊山の伝承
第7代孝霊天皇の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
溝口町発行 「鬼住山ものがたり」より
伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級 の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったと も考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には, 妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。
高杉神社 妻木晩田遺跡から見た米子市
高杉神社はその昔宮内古墳群の位置にあったそうである。伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋してこの地に来たとあるが, 実際はこの地に来てから朝妻姫を皇后にしたのであろう。また、老いた母のことが気になって天皇からお暇をいただいたとあるが、 これは天皇が大和に帰還するとき連れて帰ろうとしたが、老いた母のために大和へはついていかなかったと解釈できる。実際に大和での記録( 古事記・日本書紀)に朝妻姫は存在しない。妻木晩田遺跡は丘陵地に築かれた高地性集落である。水の便も悪く、水田耕作にはまったく適さな い地である。
しかし、日本海や米子市内を見渡す視界は実によい地である。楽楽福命の訪れた2世紀後半は倭の大乱の直前で緊張状態にあり、警戒のために発達したと推定される。孝霊天皇がこの地を訪れたとき、この遺跡に住んでいた人々は、四隅突出型墳丘墓を作っていることもあり、素盞嗚尊信仰が強い出雲系の人々である。当然ながら大和から来た楽楽福命にはかなりの警戒心を持っていたと思われる。楽楽福命は出雲と対決に着たのではなく話し合いに来たのである。そのため、この地の人々の警戒心を解くために朝妻姫を娶ったとも考えられる。日野郡誌と照合すると、楽楽福命がこの地に来たのは孝霊45年(171年)ということになる。
出雲との交渉
命はここを拠点として早速振根との交渉に入った。振根が朝廷の支配下に入ることを簡単に承諾するとはとても思えず、まず鬼退治から要求することにした。
「速やかに東倭全体の鬼退治をせよ。」と言うと、振根は
「素盞嗚尊は武力なしで国を統一した。我々も武力には頼らない。素盞嗚尊の神の力で必ず鬼はいなくなる。」
命は、
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:タケハニヤスの乱最終章