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加賀の潜戸~ 佐太大神(猿田彦)

更新日:2023年12月7日

第167話~出雲神話を疑う3。


松江市島根町加賀にある加賀の潜戸(くけど)は、たいへん規模の大きな海蝕(かいしょく)洞窟で、遊覧船で訪れたことのある方も多いと思います。新潜戸は3つの入り口があり、中がトンネルのように連結された全長200メートルの海中洞窟となっています。


潜戸は出雲風土記によると、佐太大神の生誕地と記されています。佐太大神は出雲国で最も尊いとされる四大神の内の一柱とされていますが、猿田彦のことです。


出雲風土記では、佐太大神の神霊の由来をキサカイ姫の所業によるとしています。

第53話五十猛彦は饒速日! で、すでに述べていますが、大国主がたくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神がと偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んだところへ、神産巣日之命の命令によって両神が派遣され、キサガイヒメが「刮(きさ)げ集め」、ウムギヒメが「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとあります。猿田彦は、このキサカイ姫の子供です。キサカイ姫は枳佐加地売命(きさかちめのみこと)ともされています。枳佐加地売命は、因幡の白兎神話の後段、岐路の途中 八十神の謀略で命を落とした大国主命を救い、再生させた女神「枳佐加比売命」のことす。


そして「垂仁天皇の第一子である誉津別命(ほむつわけのみ)言語(物言わぬ)障害があったのですが、それは出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、肥川に橋を渡し、仮宮を造営して滞在していると、そこに出雲国造の祖先である岐比佐都美が青葉の木を飾り立てて川下に立て、、、」として登場してくる岐比佐都美(きいさつみ)もキサカイ姫のことだとおもわれます。


この出雲風土記の記述もあやしいのです。すべてキサカイ姫は治療ができたという話です。

大国主、誉津別命はキサカイ姫に治療してもらっているのです。そして稲葉の白兎の話も治療してもらう話です。


猿田彦の佐太という地名は、枚方市(ミマキ=御牧国=邪馬台国)のさだ(蹉跎村)からきていると思います。「さだ」は当時の茨田郡出口村~北河内郡蹉跎村1938年枚方町に編入されています。


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<後記>2023.12.4


潜戸のある加賀の神崎の西方に今では地続きとなっている御嶋と秋鹿郡の大野郷の北方に女嶋があります。この御島は元々は三島と呼ばれていました。御津の浜の北西の男嶋がありここの佐太大神が鎮座しているとされています。この男嶋も三島だったようです。

「古代出雲」門脇禎二著 p190


私は佐太大神=猿田彦は三島(大阪府茨木市)の東奈良遺跡の技術者だったと思っています。


※大阪府守口には八雲という地名があり、その付近には佐太〒 570-0002、日向〒570-0023などの地名があり気になっています。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


枚方市立蹉跎中学校




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