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吉備と邪馬台国と高陵小学校

第163話


孝霊天皇の子が彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)で亦の名:吉備津彦命(桃太郎)。そしては五十猛神(イタケル)は素戔嗚の子とされています。


私の考えでは孝霊天皇=素戔嗚で、彦五十狭芹彦命=五十猛神です。前号で当時、吉備(岡山)を制圧していたのは、長脛彦ではないかと書きました。でその長脛彦を退治したのが桃太郎こと吉備津彦命(実は五十猛)、、、、と書きたいところですが、吉備と大和(邪馬台国)は、どの資料をみても仲が良かったようです。


古事記に「大吉備津彦命と稚武吉備津彦命とは、二柱相副ひて、針間の氷河(ひかわ) の前(さき)に忌瓮(いわいべ)を居ゑて、針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。」とあります。


稚武吉備津彦命は大吉備津彦命の弟つまり五十猛の弟の饒速日のことでしょう。忌瓮(いわいべ)とは神酒(みき)を入れて神に供えるために清められた容器のことで、お互いにお酒の飲んでうまく和睦した様子がうかがえます。


前号でもふれたように大和勢力の表象(シンボル)ともいえる前方後円墳の創設には吉備、なかでも「楯築」を生んだ備中勢力がもっとも強くかかわったのではないかと思われます。


私が卑弥呼の墓と思っている鷹塚山遺跡からも「分銅型土器製品」が出土しています。

この素焼きの土製品は、呪者が首にかけて信仰用に使われたのか、その用途ははっきりしませんが、「吉備の人」が作ったもののようで、150kmも隔てた吉備地方と枚方が淀川・瀬戸内海の水路によって交流していたことがわかります。


鷹塚山は高→鷹 、塚→陵と読めることから、墳墓ではないかと思われるのです。大阪府枚方市高塚町という地名もあります。


卑 彌 呼 以 死 大作 冢 徑 百 餘 歩~卑弥呼が亡くなった時、径百余歩に及ぶ 巨大な冢(墓)を作ったと書かれています。


私は禁野の病院を退職したあと、その病院のすぐ横にある高陵小学校に臨時の施設管理人として務めていました。邪馬台国前史Ⅸ~禁野・中宮・ヤマト


高陵とはまさに「冢 徑 百 餘 歩」の高陵(たかつか)のことです。


鷹塚山遺跡は昭和43年に枚方市文化財調査研究会の発掘調査により弥生時代後期の高地性集落の遺跡であることが明らかになりました。また、畿内の弥生遺跡からはじめて和製の小型銅鏡(直径7cm)の「重圏文鏡」も集落内から出土しています。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


高陵小学校(大阪府枚方市御殿山南町)


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2 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Nov 28, 2023
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神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社である。旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土したことで知られる。

大国主神磐筒男命、磐筒女命を祀る。

出雲国風土記大原郡条の神原郷の項に見えるのが初見である。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが[なぜ?]、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。

  • 杵築郷 - 古代〜中世に出雲国出雲郡にあった郷。現在の島根県出雲市大社町付近とされる。

  • 杵築大神


厳藻 藻は海

https://www.bing.com/ck/a?!&&p=b1d3e6b95dfbb561JmltdHM9MTcwMTA0MzIwMCZpZ3VpZD0yYzY3YmNlZC04ZWUxLTY2MDQtMjYxZC1iMjQ4OGY3MDY3ZGImaW5zaWQ9NTIyNg&ptn=3&ver=2&hsh=3&fclid=2c67bced-8ee1-6604-261d-b2488f7067db&psq=%e6%b0%b4%e9%87%8e%e7%a5%90+%e5%8e%b3%e8%97%bb%e8%aa%ac&u=a1aHR0cHM6Ly9mdXVyYWlraS5jb20vaXp1bW9ub2t1bmkv&ntb=1

水野祐「出雲の豪族と出雲臣族」 、「出雲の国造」(ともに 上田正昭編『古代を考える出雲』吉川弘文館)は、出雲の語意は厳 藻で川藻を神聖視したものであった。 また出雲国造は意宇の勢力 であったが、迂余曲折を経て出雲全体を統合した。 大穴持は意宇 などの東出雲の勢力が斎く神であった。 前方後方墳は出雲から発 生し、出雲族の移住とともに東国に伝播したと説く。 上田正昭 「殺牛馬信仰の考察」(『松前論集』)は、牛馬を殺して神を祭る習俗 は渡来人がもたらしたものである。 このことは近年に発見された 新羅古碑に、斑馬を殺すことが見えることから知られるとする。 石井博「任那の和訓」(『人文社会科学研』究〈早大.理工〉三三)は、 ミマナは朝鮮語のニムナー1主の国の意が転訛したものであると説 く。 ただ、古代の日本で任那をどのように読まれたのかは再吟味 する必要がある。 また、原秀三郎「王権と東方への道」(『中部』 〈新版古代の日本 7V )や、館野和己「越の国々と豪族た」ち(同)も ある。 また氏族論では大和岩雄『秦氏の研究』(大和書房)で、芸 能をはじめとする秦氏の多様な側面を明らかにしている。史料研 究では、 東京国立博物館編『江田船山古墳

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