第241話
河内の草香江の戦いに敗れた神武東征軍は、和歌山に迂回し紀ノ川河口に上陸し、紀ノ川沿いを進んで五條・吉野から大和入りを目論む。
そこに立ちはだかったのが名草一族。名草軍は、高倉山、クモ池あたりを主戦場として大いに戦い、遂に神武東征軍を退けた。しかし、この戦により首長「名草戸畔」は不運にも戦死してしまった。
名草の民は、首長の遺体を頭、胴体、足の三つに切り分け、それぞれ、見晴らしのよい高台に埋葬し、五穀豊穣の神として祀ることにした。一方、神武東征軍は、さらに紀伊半島を回り込んで熊野へと向かわざるを得なかった。これが口承の概略です。
和歌山県の南にある海南市の3つの神社、宇賀部神社は頭の宮と呼ばれ頭を、杉尾神社は別名おはらさんで、お腹の神とされ胴体を、そして足を祀った場所が千種神社となっています。
そしてこれらの神社の祭神はカグツチ(迦具土)なのです。前号で書いたようにカグツチはイザナミから生まれたとされています。宇賀神社の祭神は今では誉田別命になっていますが、末社に秋葉神社があり火之迦具土大神(カグツチ)祭っています。
千種神社は、地元では「あしがみさん」と呼ばれています。祭神は鹿屋野比売神(やかのひめ)、または草祖草姫(くさのおやかやのひめ)です。伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた草の女神です。草というのは名草=名草トベのことでしょうか。
この伝承により、イザナギ・イザナミが和歌山、伯耆から和歌山から鉄を求めて移動してきたと考えられます。名草は和歌山市で太田黒田遺跡があります。
ここで思い出されるのが播磨国風土記の次の記述です。
「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」太田市と遺跡 ~呉の勝
黒田遺跡は、私がスサノオと決めつけた孝霊天皇の宮は奈良県の黒田です。ここには大規模な鍵・唐子遺跡が遺跡があります。摂津の国の三島(茨木市)には東奈良遺跡遺跡があり、高槻市には安満遺跡があります。そして最終的に鍵・唐子遺跡はそのまま箸墓のある纏向遺跡に移動したことが最近の研究で判明しています。
伊弉諾・伊弉冉が名草の黒田遺跡で、素戔嗚(孝霊天皇)、饒速日(孝元天皇)の時代が東奈良遺跡、安満遺跡、そして崇神天皇の時代に纏向にへ移動したのが邪馬台国(大和朝廷)であると考えることもできます。
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私は、名草トベは殺されいなかったと思っています。
戸矢学氏はこうも述べられておられます。p169より引用「神殺し」の本当の意味は征服。~日本書紀を子細に見ると、殺されたはずの族長と思しき人物が名を一部変えて地位を得て臣従していることに気付きだろう。微妙にタイムラグを設定しながらも記録を残しているはその子孫が存在するからだ。彼らは、もともと敵対していたのにその後帰順した大事な臣民だからだ。例えば、名草トベは殺されたことにし、その神威を吸収した新たな神を生む。そして新の神として戸矢学氏は天照(アマテラス)を挙げておられます。
このプログでは名草トベは、ウツシコメで卑弥呼=アマテラスです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木(三島)、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫