第359話
全国にある神社のうち、「4拍手」をするのは出雲大社、大分県宇佐市にある「宇佐神宮」そして新潟県弥彦村にある「弥彦神社」の三社だけです。
私は四拍手といった時点で、これらの神社は、それまであった三拍手の神社よりも後にできた神社であることを証明していると思いました。そして四拍手になにか意味を持たせようとする意図が透けて見えます。それまで権威のあった神社は、奈良県にある日本最古と思われる大神神社、大和神社、石上神社で、四拍手の神社はこれらの神社と差別化し新たな権威付けをしたかったのです。
なお大神神社、大和神社、石上神社を創建したのは大阪府枚方市のイカガシコオ(伊香色雄命)です。
1)出雲大社(明治以前は杵築大社)
出雲大社は、4世紀にヤマト政権が出雲地方を攻め併合した際、祟らないようにオオクニヌシ神の怨霊を封じ込めた社です。つまり4拍手するのは、黄泉の国(死の国)いる大国主に対して「祟らず、黄泉の国から見守っていてください」という意味だといわれています。古代、ヤマト政権は日本を統一していく過程で、祟りを恐れ、倒した敵国の神を祀ることが常でした。4拍手するのはオオクニヌシの御霊(みたま)を社の中に鎮めるための所作でとかんがえられています。
私は、このブログで出雲は島根県の地名ではなく、乱を起こしたタケハニヤスが山代国(京都府)愛宕郡の出雲(現在は出雲路)に領地を持っており、タケハニヤスは出雲の王と呼ばれていました。タケハニヤスは反乱を起こしたことから、出雲は大和の敵という意味になったのです。としていましす。研究者の中にも、出雲は大和国家に都合の良くない集団だとする説があります。タケハニヤスの乱(最終章) ~京都市北区出雲路
〇出雲大社(杵築大社)はかつて、32丈(およそ96m)であったとされ、現在では巨大なしめ縄が注目されていますが、これはかつての大阪万博の月の石や太陽の塔のようなもので、客寄せのためのはったりです。国譲りで大国主が「天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい」と言ったとされていますが、何らかの曰くイワレが必要なので作った話です。
これはプラセボ効果です。庶民は権威に弱いのです。もっともらしいものに権威を感じ恐れ入るのです。
2)宇佐神宮
第307話:大隅隼人は京都府京田辺市 でも述べたように、律令国家として、内外に権威を示したい不比等(藤原)は、卑弥呼(ヒルメ)は日本人であることをするために、卑弥呼として神功皇后を創作し、宇佐に八幡宮と作りました。参照:第308話: 八幡神はヒルメ
8世紀初め朝廷により、他地域(京都府田辺市大住→大隅)から南九州への集団移住が行われたという記録があります。現在の鹿児島県一帯への移住民は当地の総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定されています。記紀の作者たちは、何が何でも日向を九州としたかったようです。参照: 日向は大阪府守口市
宇佐神宮の創建は、725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神を祭ったとされています。大宝の律令の撰定が完成したのが701年。この時期に藤原不比等らに禄を賜うとされ、日本が律令国がとして成立します。720年2月に隼人の反乱があったとされています。その年の5月に日本書紀が完成し、8月に藤原不比等が没しています。その創建は単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものです。
<関連項目>
隼人族1)隼人族は呉の勝
隼人族2)隼人族は疑似民族集団
隼人族3)阿多隼人(薩摩隼人)
隼人族4)大隅隼人は京都府京田辺市
この当時既に、ウツシコオ(内色許男命)=ヒルコは高御産巣日神(高木神)、ウツシコメ(ヒルメ)も天照大神として祭られていました。そのため、人々が知っていた当時の常識を修正して後世に伝えるために、出雲大社を作り、宇佐八幡宮を建てたというわけです。素戔嗚は神産巣日(神皇産霊:カミムスヒ)、大彦は大国主です。カモ族を出雲族、隼人族とし、消し去られました。
両神社のホームページによれば、2拍手でも心がこもっていればよいのです。
拍手をする理由ですが、5月14日の例祭(勅祭)で、この時には8拍手します。数字の「8」は古くより無限の数を意味する数字で、8拍手は神様に対し限りない拍手をもってお讃えする作法です。ただし、8拍手は年に1度の例祭(勅祭)の時のみの作法としています。平素、日常的には半分の4拍手で神様をお讃えする4拍手の作法としていますが、お祈りお讃えするお心に差はありません。
つまり拍手の数など大した意味もないのですが、曰くイワレ(言い伝え)があればもっともらしく有難く思えるのです。
私は、善男善女の素朴な信仰心を傷つける意図などありません。当時の絶大な国家権力によって作られた神社には、それなりの意図があったのだということが言いたいのです。
3)弥彦神社については、次回 四拍手はハッタリ?! 2をご覧ください。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
五十猛命(いたけるのみこと)と出雲族 (xn--u9jta474uoyc71cky0m6xj.jp)
謎多き丹後半島 (on-linetrpgsite.sakura.ne.jp)
伊勢遺跡の特徴 (yayoiken.jp)
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子