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国譲り~タケミナカタは饒速日??

更新日:6月20日

第353話


スサノオは、ウツシコオ(内色許男命)である(参照:玉櫛・天王(地名)~茨木市、高槻市 )と分かりましたので、過去の記事を見直してみます。今回は第278話国譲り再考の再考です。


スサノオことウツシコオ一行は呉の勝で、和歌山市(名草)から、三島に来てそこで大山祇と衝突したと思えわれます。播磨風土記に「昔・呉勝・韓国より渡り来たり、はじめて紀伊国名草郡大田村にいたり、その後、分かれ来て、移りて摂津国三島加美郡大田村に遷り来る。これ本の紀伊国なる大田をもって名となすなり」とあります。


今回は、大国主=大彦が大山祇という設定です。参照:第265話:大山祇は三島(摂津)の王

大山祇(大彦・大国主)はもともとは山の神ではなく、「和多志=渡しの大神」と言われていることから、淀川・河内湖から鴨川に至る河川の支配者であったと思われます。三島の溝杭です。


スサノオは、大山祇・大国主と戦い勝利し、大山祇の娘であるマシタ姫を娶ります。

神屋楯比売命~大国主の妻 で書いたように、マシタ姫は、神屋楯比売命=市杵島姫命=神屋楯比売命=高津姫=神大市比売(スサノオの后)=細姫(真舌姫:孝霊天皇の后)=丹生都比売=木花開耶姫=神阿多都比売=アタ姫(タケハニヤスの后)です。


神屋楯比売命は大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)の神名で祀られることが多くみうけられます。神屋楯比売命は、大歳=饒速日の母親です。


そして、国譲りで武御雷(タケミカヅチ)に"こてんぱん"にやっつけられたタケミナカタは大国主の子です。母は沼河比売(ぬなかわ姫)です。建御名方神(たけみなかたのかみ)、日本書紀以外では南方刀美神(みなかたとみのかみ)参照:南方刀美神(タケミナカタ)~三島の溝杭3代目


つまりタケミナカタと饒速日は腹違いの兄弟です。


出雲国風土記では、記紀所載の国譲り神話のような話は見られませんが、大穴持命(大国主神)が自主的に出雲国以外を譲るという伝承が語られています。


天あめの下造らしし大神・大穴持(おほなもち=大国主)、越の八口(やぐち)を平(むけ)賜たまひて還り坐ましし時、長江(ながえ)の山に来き坐まして詔のりたまひけらく、「我が造り坐して命しらす国は、皇御孫すめみま命、平世とこよに知らせと依さし奉り。但ただ、八雲立つ出雲の国は我が静まり坐す国と、青垣山(あをがきやま)廻めぐらし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひてる」と詔りたまひき。故かれ、文理(もり)と云ふ。


文理(もり)は守口です。八雲も守口市です。櫛名田比売2~八雲は守口市


大己貴神(大国主)は「頼りの息子は去ってしまったので、私も去ることにします。もしも抵抗すれば、国中の神々も同じように戦います。しかし、私が身を引けば、従わない者はいないでしょう」と言った。そして国を平定した時に用いた広矛(ひろほこ)を神に授けて、「天孫がこの矛を以て国を治めれば、必ず平安になるでしょう。私は今、百(もも)足らず八十隈(やそくまで)へ隠れます」と言い終えて、姿を消しました。


百(もも)足らず八十隈(やそくまで)とは、遠く山を越えた所=現在の出雲のことで、大国には、三島(守口の八雲)からの島根の出雲に行ったのです。


建御名方神は、古事記では国譲り神話しか登場していません。大国主神の子でありながらその系譜には名前が見られず、国譲りの場面にも唐突に出てきます。しかし旧事本紀ではちゃんと大己貴神の系譜には記述があり、大己貴神と高志沼河姫の子となっています。

出雲国風土記や出雲国造神賀詞にある出雲国の伝承にも一切登場していません。


いっそのこと、クシナダ姫と同じように沼河比売(ぬなかわひめ) も架空の人物だとすれば、タケミナカタは饒速日と同一人物であるかもしれません。櫛名田比売2~八雲は守口市   


タケミカヅチに国を譲ったのは饒速日だとすれば、日本書紀の話と合います。タケミカヅチが神武天皇で、饒速日は長脛彦を殺して神武に国を譲っています。


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宝賀寿男は、また事代主神と建御名方神の国譲りは、日本書紀の神婚譚にも見えるように、実際には現在の奈良県(旧大和国、大神・磯城周辺)であったとされる。実際に『出雲国風土記』には事代主神も建御名方神も登場しない。

また、記紀神話における「出雲」を現実の出雲国だけではなく、ヤマト王権に帰順しなかったと思われる地域・部族の総称とする説もあります。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
23 de jun.
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
19 de jun.
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また、宝賀寿男は、伊勢津彦に関する記述[注釈 1]から、建御名方神とは本来は別神であり、神武天皇の東征によって故国を追われたことから混同されたものと独自の説を示した。同説では、その他別名(櫛玉命)や世代関係(神武一世代前)など諸要素からも伊勢津彦神こそ邇芸速日命と同神とされ、東国へ逃亡したのは実際は伊勢津彦神の子に当たる神狭命とした[2][3]。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
19 de jun.
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伊勢国風土記』逸文逸文内一説の記述によれば、出雲神の子である出雲建子命の別名が伊勢都彦命(伊勢津彦神)であり、またの名を天櫛玉命(櫛玉命)というと記しており、「伊勢」の由来についても、国号由来とは異なる記述が成されている。


それによれば、命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(き)を造っていたが、阿倍志彦の神(あへしひこ-。『延喜式神名帳』内の伊賀国阿倍郡の敢国神(あへのくにつかみ。敢国神社の祭神。伊賀国の式内社一覧も参照。)と見られる)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、それに(石城(いしき、いわき)の音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記す。


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