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垂仁天皇はウツシコオ:内色許男命

更新日:7月8日

第368話


垂仁天皇は第11代天皇で崇神天皇(ミ・マキ・イリヒコ)の子とされています。

和風諡号は活目入彦五十狭茅天皇(いくめ・いりびこ・いさちのすめらみこと)です。


彦はすべてウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王としましたので、そのことを検証してみましょう。参照:第363話:彦はすべて、古代天皇は全員ウツシコオです。


垂仁天皇(いくめ・いり・びこ・いさちのすめらみこと)諱(いみな)の活目(イクメ)は、生駒(いこま)です。生駒は大阪府と奈良県を隔てている山です。長脛彦は伊勢国風土記では胆駒長脛(いこまのながすね)と書かれています。饒速日*が天下った哮峯(いかるがみね:交野市私市の磐船神社は生駒山系です。長脛彦はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。*饒速日はスサノオの子です。饒速日は日向御子です。日向は守口市です。参照:日向御子~大神神社  日向は大阪府守口市


垂仁記には、アメノヒボコ、丹波、但馬の記事が多いことに気が付きます。


・天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させた。現在、その神宝は出石神社で祭られている。

・新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が神宝を奉じて来朝。

・丹波道主王の女たちを後宮に入れる。

・天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させる。

・天日槍の玄孫の田道間守に命じて常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。3月、田道間守が帰国。

・五十狭茅の五十はイソ(磯)の意味で五十猛、彦五十瀬と同様にイソタケル=ウガヤフキアエズのことです。参照:ウガヤフキアエズのミコト


すでにこのブログでは、アメノヒボコも田道間守もウツシコオであるとしています。



山背行幸の記事に注目すると、垂仁天皇が山背(京都府南部)に行幸したときのことである。綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいると聞いた天皇は「もしその人と縁があるならば瑞兆があるはずだ」と誓約(うけい)をした。もうすぐ行宮(宿)に着くというところで大きな亀を見つけた天皇は矛を取って突き刺した。すると亀は白い石へと変わった。なるほど、これが瑞兆なのだろうということで綺戸辺は後宮に召された。とあります。


・山背(京都府南部)は私が邪馬台国は巨椋池とする地です。

・綺戸辺(かにはたとべ)とは、ウツシコオの関連のある場所:蟹幡郷(かにはた:京都府相楽郡)と思われます。参照:朱智神社~迦邇米雷王

・大きな亀は、浦島太郎=ウツシコオです。参照:鶴と亀がすーべった:籠神社

・垂仁天皇は田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させたとありますが、田道間守はウツシコオです。参照:丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!

・倭奴国との関連、日本書紀で田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算するとBC61年になります。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた57年に近いため、書紀の編者は垂仁天皇を倭奴国王、田道間守を大夫と考えていたことが推測されます。倭(委)奴国王とウツシコオについては、君が代(1)~志賀海神社 で述べています。


実際に魏に行ったのは、大綜麻杵=難升米=ウツシコオです。

難升米は三国志:魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場しています。

 欝色謎命の「欝」は、難しい漢字なので「難」と表し、「色謎」は「升米」に対応すると考えると「欝色謎」は「難升米」


京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城)があります。ここはウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の拠点である巨椋池のど真ん中です。


垂仁記はアメノヒボコで始まり、田道間守で終わります。垂仁天皇は、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王)です。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7月04日
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星宮社 - Wikipedia

乎止与命(上知我麻神社)[編集]

真敷刀俾命、伊奈突智老翁(下知我麻神社)。

本宮の裏手の山頂に、上知我麻神社と下知我麻神社の二社があり、一対で建稲種命宮簀媛命の親神二柱を祀っている。二柱は尾張国造として東南の火高(現在の大高。氷上姉子神社の社地)に城館を構え、その子孫である尾張氏は熱田神宮大宮司家を務めた。

尾張志及び尾張は、下社の祭神を真敷刀俾命と伊奈突智老翁の二柱としている。尾張徇行記は、星宮社の絶頂に「伊奈突智翁」を祀る小社があると記している。尾張名所図会は、本宮の裏手の山頂に「イナツヲキナノ社」を描いている。南区の解説では、知我麻神社は伊奈突智老翁を祀っているが、上下社のいずれであるかについては明言していない。


上知我麻神社 | 神社の図鑑 (yuya-travellog.com)

御祭神は、『乎止與命おとよのみこと』。尾張国おわりのくにを支配した国造くにのみやつこで、

日本武尊やまとたけるの妃で熱田神宮に草薙神剣くさなぎのつるぎを祀った、「宮簀媛命みやずひめ」の父神です。

乎止與命は、知恵の神様として「知恵の文殊もんじゅさま」と呼ばれており、

境内には合格祈願や学業成就の絵馬が多く奉納されています。

また、上知我麻神社は商売繁盛と家内安全の神様である、

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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