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大山積神も渡来人

更新日:4月13日

第283話


古事記では大山津見神、日本書紀では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記されます。 別名 和多志大神(渡しの神)


釈日本紀(伊予国風土記の越智郡御島の条)に大山積神(大山祇)は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋(三島)に鎮座、のち伊予国に勧請されたと書かれています。


一方、ウガヤフキアエズ(素戔嗚)の一族は、昔・呉勝・韓国より渡り来たり、はじめて紀伊国名草郡大田村にいたり、その後、分かれ来て、移りて摂津国(注)三島加美郡大田村に遷り来る。(播磨風土記)と思われます。


つまり大山祇の一族とウガヤフキアエズのミコト(素戔嗚)の一族は、摂津國の三島で出会ったのです。素戔嗚(孝霊天皇)は磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后にします。

この磯城県主(または十市県主)大目というのが、大日の間違いです。大日は大阪府守口市の地名です。〒 570-0003

和州五郡神社神名帳大略注解所の十市(トイチ)縣主系譜に、十縣主の祖は大日彦(オホヒヒコ)の娘であると書いてあります。素戔嗚は、大山祇命の娘の神大市比売(カムオオ”イチ”ヒメ)を娶ったと古事記に書いてあります。


つまり大山祇と素戔嗚は細媛命=真舌媛味舌姫)=神大市比売=市寸島比売命を仲立ちとして合併したのです。このことはすでに邪馬台国の誕生 で書きました。味舌も大日も三島です。~一に云はく、十市県主等が祖が女真舌媛といふ:『紀』孝霊紀2年2月条。


素戔嗚と市寸島比売命との間にできた子が饒速日(孝元天皇)です。そして饒速日の子が大彦(大国主)です。饒速日が崩御すると大和=邪馬台国は大彦(大国主)のものになりました。そして国譲りです。やはり国譲りを画策したのはウツシコオ内色許男命)でしょう。


ウツシコオは自分の孫にあたるイカガシコメの生んだ子がミマキイリヒコを大王(天王)にしようと画策します。なんとか大彦=大国主を追い落とさねばなりません。


高御産巣日神と天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。思金神と神々が相談して使者を派遣するのが良い」という結論になりました。高木神と天照大御神は天菩比命に葦原中国を統べる大国主神の元へ行くよう命じました。


高御産巣日神(高木神)はウツシコオです。天照大御神はウツシコメ(卑弥呼)です。思金神もウツシコオです。天の安の河の河原は枚方市役所の側にある河原町でしょう。



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(注)

摂津という国は当時ありませんでした。なぜなら三島・御牧は日本の中心地だったからです。しかし崇神朝に発生した疫病により三島・御牧は放棄されてしまいました。摂津という国名ができるのはずっと後(150年後)です。摂津の誕生



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。








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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Apr 09
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