第349話
第347話:推古天皇は架空の天皇で大阪府交野市は地味肥え作物豊かな野であったので「甘野」といわれ、後に天野(あまの)となりました。古事記・日本書紀に出てくるアマ・アメはこの交野市私市(天野)が起源です。と書きました。ということは天児屋命(あめのこやね)も交野市にいたのでは、、、と思って調べようと思ったら、第315話:阿曇磯良は天児屋根命?? で下記のように書いていました。
阿曇磯良(安曇磯良:あづみのいそら)は安曇氏(阿曇氏)の祖神とされています。
「磯」と「渚」は共に海岸を指すことから阿曇磯良は豊玉毘売命の子で、日子波限建(ヒコナギサタケ:鵜葺草葺不合命の別名)と同神であるとする説があり、また、八幡愚童訓では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしています。
八幡愚童訓(石清水八幡宮縁起)では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしていますが、これは信用できません。が、考えて見れば天児屋根命はずっとウツシコオ(内色許男命)と行動を共にしています。天児屋根も呉の勝の一族であったということです。
これは信用できません。としてしまったのは、天児屋根命は中臣氏=藤原氏で物部氏を滅ぼした一族だという固定観念があったためです。中臣氏が藤原氏を滅ぼすのは邪馬台国の時代よりも何百年も後のことです。
阿曇磯良は、日子波限建(ヒコナギサタケ:鵜葺草葺不合命:ウガヤフキアエズ)で天児屋根命だったのです。ウツシコオの一族です。
天児屋命の子に天押雲根命という人物がいます。別名は天村雲命*注です。
天孫本紀などでは、天村雲命は高倉下命の子で、尾張連とされています。高倉下命は大彦です。大彦は、孝元天皇の子とされていますが実はウツシコオです。
天児屋命の別名として、八意思兼神とも同一視する説もあります。中田憲信「兼松」『諸系譜』第二十四冊。八意思兼神とはウツシコオのことです。
もう間違いないでしょう。天児屋命はウツシコオ(内色許男命)です。
古事記・日本書紀はウツシコオの伝記なのです。
記紀の作者たちは、500年前の記事を書いています。残された資料はおそらくイカガシコオが書いた資料しかありません。その資料はイカガシコオの父であるウツシコオの関連の記事でばかりであることは間違いないでしょう。
当時の日本で文字を読める人物はほとんどおらず、ましてや歴史書などをかける者などいるはずがありません。イカガシコオは偉大な父の実績を残しておきたかったのでしょう。
記紀の作者たちは、それではまずいので、ウツシコオを様々な別の人物として再構成したのです。
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*注
「中臣寿詞」の伝承や摩氣神社の社伝、大同本紀などの史料の記述を総合すると、天孫降臨のとき地上には未熟で荒い水しか存在せず、父の命によって天押雲根命が高天原より天津水(天忍石長井水)を持ち還り、この水を皇孫に奉ったとされています。これらの伝承では天牟羅雲命の神名で登場しています。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
天児屋命(アメノコヤネノミコト)は祝詞を読んだ重要な神様
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子