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孝霊天皇クーデター事件

更新日:7月10日


第373話~大山咋神は孝霊天皇


ウツシコオ(内色許男命)が孝霊天皇の政権を転覆させ、自分の子を孝元天皇として即位させたとする説を提唱されているのは、「上代日本正史」の著者 原田常治氏です。


八井耳尊の八男の雀部臣という人物が、穂積連である内色許男命(ウツシコオ)と図って、クーデターを起こし、孝元天皇を擁立したとされています。


孝元天皇の后は、ウツシコオの姉のウツシコメですから、十分にあり得る話です。その後、雀部臣の系図が没収されてしまっていることが、この事件が実際に起こったことであるとされておられます。


私は、第257話:邪馬台国の誕生邪馬台国の誕生三島は大山祇(大山咋神に訂正します)の支配地であったのですが、そこにウガヤフキアエズが和歌山県の名草からやって来たのです。多分、紛争(戦闘)もあったのでしょう。最終的に大山咋神とウガヤフキアエズ(後のスサノオ(津田の王)が和睦します。こうしてウガヤフキアエズと三島の大山咋神が大きく和し大和(やまと)が誕生したのです。としました。参照:ウガヤフキアエズのミコト


その結果、大山咋神が孝霊天皇として即位し、ウツシコオ(内色許男命)がヤマト(邪馬台国)の宰相となったということではないでしょうか。


比叡山の地主神である大山咋神はもともとは三島の豪族(大王)だと思います。


大山咋命は保津川周辺の神社で市杵島姫命とともに祭られています。

・請田神社(亀岡市保津町立岩)、請田神社は保津峡入り口にあたります。保津峡を開削する工事費用を「請け負った」ことに由来するといまれています。祭神は、大山咋命と市杵島姫命

・桑田神社 (亀岡市篠町山本)、大人気のトロッコ列車の右岸の奥に桑田神社が鎮座しており、保津峡入り口にであることから、開削を始めた地とされています。祭神は市杵島姫命、大山咋神、開削に使った鋤と帯びていた短剣を祀ったとされ、大山咋神が庵を結んでいたともいわれています。

・餅籠神社(持籠神社/篭持神社)当地から籠で土砂を運んだとされ、伝承上の神社で所在は不明です。この神社が松尾大社ではないかとする説も有ります。祭神は・請田神社(亀岡市保津町立岩)、請田神社は保津峡入り口にあたります。保津峡を開削する工事費用を「請け負った」ことに由来するといまれています。祭神は、大山咋命と市杵島姫命(中津島姫)


「神武天皇と卑弥呼の時代」の著者 佐藤洋太氏は、孝霊天皇はヤマトトモモソ姫とともに四国の讃岐に落ち伸びたとされています。香川県東かがわ市に水主神社があります。京都府城陽市水主宮馬場にも水主神社があり、第370話:とよ(乎止与命・台与・臺與)で 紹介しています。第161話:倭迹迹日百襲姫命は淡路島出身 でも香川県東さぬき市の水主(みぬし)神社は登場しています。水主神社が孝霊天皇にゆかりのある神社であることは案違いありません。


愛媛県伊予郡松前町神崎にある伊予神社では、第371話:彦狭島命~吉備児島 で述べた彦狭島命を祭る神社ですが、境内にある山之神社で大山咋命を祀っています。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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5 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 16
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『古事記』では天照大御神と須佐之男命の誓約の段で、天之菩卑能命の子が建比良鳥命であり、出雲国造・无邪志国造上菟上国造下菟上国造伊自牟国造津島県直遠江国造等の祖神であると記されている。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 16
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天御鳥命(あめのみとり) - 楯縫郡郡名。紀国造系図では彦狭知命の別名とされる。

武比良鳥(たけひらとり)


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 16
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大山祇は、ウツシコオ


三島はウチです。

日本書紀 の 注釈 書 で ある「 釈日本紀」 の 中 には、 伊予 国 の 大山祇神( お おやま つみ の かみ) の 説明 が あり ます。

  宇知郡 御島坐神 御名 大山積神   一名和多志大神也   是神者   所顕 難波 高津宮 御宇天皇 御世   此神 自百済国度来坐而津国御島坐 云々 謂御島者   津国御島名 也


志貴皇子(しきのみこ、668年? - 716年9月1日霊亀2年8月11日〉)は、日本飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族芝基皇子または施基皇子(親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇第7皇子[1]位階は二品。

皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。


日本書紀神武巻の最後の方にある「玉牆内國」は「たまかきのうちつくに」と読みますね. 玉牆は玉垣と同じで、建物とその周囲を区画する垣を誉め称えてタマカキと言います. 玉牆内國はもともとは狭義の「大和」を指したでしょうから、ここで「タマカキの」というのは「たたなつく青垣 山隱(ごも)れる」と同じように美しい山々に囲まれていることを言うのでしょうが、狭義の大和がやがて日本国全体の大号(おおな)となったように、玉垣の内つ国も日本全体を指すようにも使われたのでしょう.


ヤマト或いは日本にほんの外に、古く大八洲国おおやしまぐに豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくに葦原中国あしはらのなかつくに玉墻内国たまがきのうちつくに細戈千足国くわしほこちたるのくに磯輸上秀真国しゆかみのほずまのくに、或いは虚見倭国そらみつやまとのくに秋津洲倭国あきつしまやまとのくになどの称号が、古く呼ばれた事があ


「玉垣の内つ国」(たまがきのうちつくに)は、日本国の美称です。この表現は、美しい垣のような山々に囲まれている国を指します。1 また、日本書紀にも「玉牆内国」として記されており、大己貴大神がこの名前で言及されています。2 朝霞光が垣の内を照らす春の美しい風景を連想させる表現ですね。🌸


ウヂ名の菴宜は伊勢国奄芸郡奄芸郷にちなむか。巷宜(そが)と読む場合は、大和国高市郡の曽賀、または筑前国早良郡曽我部郷に縁故のものと考えられる。


ミシマも内国


越智


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 09
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 08
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