第312話
宗像氏は海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る広大な海域を支配したとされています。古代には、畿内の大和朝廷から瀬戸内海、関門海峡を通って宗像の地の沖から世界遺産の沖ノ島、対馬を経て朝鮮半島に至る海路は「海北道中」と呼ばれ文化交流、交易上重要性な一族でした。
沖ノ島でヤマト朝廷による国家祭祀が行われるようになったのは4世紀後半と言われています。大和朝廷(邪馬台国)は、大陸との交流を進めるには、高い航海術を持っていた宗像氏の力が必要でした。宗像氏の一族の中には、宗像三女神と同胞の大海命(おおあまのみこと)の子孫が宗像一族であると記されているそうです。
大海命とは「天神之子」と記述があり、沖ノ島でヤマト朝廷による国家祭祀が行われるようになったのは4世紀後半と言われています。大陸との交流を進めるには、高い航海術が必要です。当時、高い航海術を持っていた一族といえば、彦狭知ことウツシコオでしょう。忌部氏(彦幸)~和歌山・名草
彦狭知の父は手置帆負神で名前に帆がついていることから船の操作に長けていたはずです。大海命こと「天神之子」は、ウガヤフキアエズ(素戔嗚)の子の彦狭知ことウツシコオしかいません。参照:ウガヤフキアエズのミコト、徐福伝説と「呉の勝」
宗像大社の御祭神・田子姫神(たごりひめのかみ)は出雲大社の大国主命と結婚していて、その孫というのが吾田片隅命とされています。その人物こそが宗像一族の始まりということです。
大国主はウツシコオの娘のミホツ姫と結婚しており、タケミナカタは大国主の子です。
第36話:真舌媛は、宗像三女神! ~三島(茨木市) では既に、市杵島姫命は、淀川(河内湖)、ミホツ姫は保津川、高津姫(コウズ姫)は天の川の守り神であることを述べました。三穂津姫尊(御保津姫)~亀岡、高津姫 ~岩船街道
第137話:南方刀美神(タケミナカタ)~三島の溝杭3代目 タケミナカタ:建御名方神、日本書紀以外の国史では南方刀美神(みなかたとみのかみ)は河内湖と大阪湾(浪速)の要衝である南方(みなみかた)を管理する人物であったと書きました。
宗像氏の出自は大国主神の六世孫、あるいは三女神の七世孫の吾田片隅命に始まるとされています。吾田、阿多(アタ)は反逆者という意味です。牧尾一彦著 「邪馬台国と神天皇」p425には賊虜=アタ、賊とは悪人、虜とは敵を罵る言葉、阿多(アタ)は逆賊と書かれています。第306話:阿多隼人(薩摩隼人)
タケミナカタは国譲りでタケミカヅチにやぶれ、諏訪湖に落ちのびたとされています。
つまりタケミナカタもアタ(吾田)です。
大陸から文字(漢字)が伝わる前から“ムナカタ”と呼ばれていたため、「胸肩」「宗形」「牟奈加多」など、様々な字があてられ現在の「宗像」という表記に統一されたのは、平安時代だと言われています。ムナカタはミナミカタです。
道中の安全を祈る宗像三女神を祀る社は海北道中の中途に数多くあり、代表的な社が次の宗像大社です。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
建御名方神、日本書紀以外の国史では南方刀美神
宇都志日金析命 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp)
「宇都志」は顕で不可視の神霊が人の姿となって現れた意かとする説や「現実の」の意とする説がある。「日」は神霊の意とされる。「金析」は、刀剣にまつわる石析神・根析神の名から推すと刀剣に縁のあるものかとして、また海神が蛇体であることにも通じるかとする説や、『類聚名義抄』の「縋」にカナサクの和訓があることから、網かがりの意とし、阿曇連が海人で網を用いる人であると捉えて、その祖がすなわち網をかがる人、編む人でこの神名になったとする説がある。また、阿曇連に関わりのある「志賀の皇神」が詠まれた『万葉集』歌(7・1230)に見える「金の岬(かねのみさき)」(筑前国宗像郡の北端の鐘崎)の地名の転かとする説もある。
『新撰姓氏録』未定雑姓・河内国の安曇連が「于都斯奈賀命」の後裔とあるのを、「奈賀」を「賀奈」と考えるなどして、同じ安曇連の祖神であるこの神と同神と見る説がある。なお、同書河内国神別の安曇連の祖神は、「綿積神命の児、穂高見命」とされている。旧事紀では「天造日女命」が阿曇連らの祖とある。
また、阿曇氏の拠点のひとつとして「筑前国糟屋郡阿曇郷」(『和名類聚抄』)をみとめ、同郡内の「志珂郷」(志賀島)に阿曇氏が綿津見三神を祭る「志加海神社」(『延喜式』神名帳。今の「志賀海神社」)があることと関連づけて、金印の出土した志賀島の「叶の崎」が「金の崎」の意であるとし、そこからこの神名を読み解き「宇津志日」を「現シ霊」、「金拆」を「金(の)崎」として叶の崎に斎き祀られた金印が神霊として現し世に姿を示したものとして、海神本来の漁撈神的性格と異なった側面を持つと見る説がある。
第3代安寧天皇の孫にあたる和知都美命が営んだ宮。伝承地未詳。天皇の飲料水として運ばれたという御井の清水の伝承地がこの場所にある。和知都美命の娘たちは第7代孝霊天皇の妃となっている。
一大率(いちだいそつ、いちたいすい)は、『魏志』倭人伝に記された倭国の官名。伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。女王卑弥呼によって任命された派遣官と考えられる。
日本書紀によると6世紀には大和朝廷によってこの時代の伊都国の隣の奴国にあたる地域に那津官家(なのつのみやけ)、7世紀には筑紫率を長官とする筑紫大宰という役所が置かれたという記録があり一大率の伊都国の周辺、即ち北部九州地域の監察という役割を考えてもそれらの前身の可能性もある。
書き下し文は、「女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。」。
現代文は、「女王国は北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。諸国はこれ(=女王国)を畏(おそ)れ、気を使っている。伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。国中(=魏)の刺史と同職のようである。」。
このことから一大率は、邪馬台国から伊都国を含む北方の国々を監察するために派遣された官人であると考えられる[1]。一大率の「率」の字は、漢語系の用字であることから、帯方郡から派遣されてきた官ではないかとする説もある[1]。
また、張明澄によるとこれは一大国の率のことであるという。
日本では「率」を軍団という意味で誤読されているが、本来中国語では「帥」(司令官)の意味であり、よって「一大」は固有名詞である。倭人伝の「一大率」は「一大国の司令官」の意味である。
速吸門(はやすいのと、はやすいど)は『日本書紀』・『古事記』に見える古代日本の地名。
豊予海峡(速吸瀬戸)の古称(『日本書紀』)。
吉備国の児島湾口の古称(『古事記』)。古くは早水の戸と呼ばれ、潮流が速く阿波の鳴戸にも劣らないほどとされた 。[1]現在は、児島が児島半島になったことや、児島湾締切堤防などにより、潮流は緩やかになっている。
明石海峡の古称(『古事記』)。
別読み:なみはや(転訛する前)、なには(歴史的仮名遣)
漢字:難波(「なんば」の別読み)、浪速、浪花、浪華
万葉仮名:奈尓波、奈仁波
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<タケハニヤスの乱>
:タケハニヤスの乱1
:タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)
:タケハニヤスの乱3 ~小人国
:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
:タケハニヤスの乱最終章