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小楯姫は台与:小楯は枚方

更新日:9月26日

第447話 #小楯姫 #台与 #邪馬台国 #衣通姫 #倭国は高槻


そもそも私がこのブログを書くきっかけになったのが私の住んでいる地区の近くにある伊加賀小学校です。伊加賀は枚方市の地名です。そこからイカガ・シコオ、イカガ・シコメのことについて調べ始めたのです。イカガ・シコメは崇神天皇の母親とされています。参照:地名から読み解く邪馬台国


天孫本紀にイカガ・シコオの妻が小楯姫であること記載されているのを知ったのはつい最近です。第430話:倭(やまと)は高槻市、葛城は交野市という記事を書いた後です。その記事の中で小楯(オダテ)は枚方市であるとしました。ということは枚方市の伊加賀のイカガ・シコオの妻は小楯姫=枚方姫であるということです。


・第429話:山部赤人は台与! では小楯なる人物が、隠れていた皇子;弘計と億計を見つけかくまいます。

・第423話:飯豊王女は台与(トヨ)なのか? ではこの二人:顕宗天皇(ヲケ)は弘計尊(をけのみこと)、仁賢天皇(オケ)は億計尊(おけのみこと)の兄弟をかくまっていたのが、飯豊王(飯豊王女)=台与としています。このことにより、小楯なる人物が台与であるとしました。


・第422話:継体天皇はトヨ(台与)??! ~では布遅波良己等布斯郎女(ふじわら・ことふし・のいらつめ)=衣通姫(そとおりひめ)は台与としています。そして、この台与=衣通姫には田宮中比彌(たみやのなかつひみ)という名前もあります。田宮(田居)中比弥の田宮(田居)は河内国交野郡田宮郷です。田宮村(たみやむら)は大阪府:枚方市田宮村です。現在の地名は枚方市田宮本・大垣内(おおがいと町)・山之上で現在の京阪電車の枚方市駅周辺です。伊加賀地区の隣です。卑弥呼が住んでいたと思われる禁野、中宮、都ヶ丘にも歩いて行ける距離です。


・先代旧事記ではイカガ・シコオの妻は長溝の娘で真木姫とされており、この真木姫は大彦の娘であるミマキ(御牧)姫のことと思われます。長溝が三島の溝杭*だとすれば、真木姫は崇神天皇の妃ともされる女性で五十鈴姫(ホト・タタライスケ依姫)です。ミ・マキは枚方市の牧野です。いずれにしても枚方の人物であることに違いはありません。*三島の溝杭は茨木市


これらのことにより、小楯=飯豊王(飯豊王女)=衣通姫=台与であり、小楯が枚方であることが分かります。もちろんのイカガ・シコオの妻は小楯姫というのは創作です。


イカガ・シコオ、イカガ・シコオというのもイカガの男、イカガの女というだけで本当の名前ではありません。つまり伊香色雄命(イカガシコオ)はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王で、伊香色謎命(イカガ・シコメ)は台与でしょう。


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<私が小楯が枚方であるとする根拠>


つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(オダテ) 倭を過ぎ 我が見が欲しく国は 葛城高宮 我家(ワギヘ)のあたり


この歌は、仁徳天皇*の歌とされています。「つぎねふや」は山代川(淀川)の「あおによし」は奈良の枕詞です。

訳:難波の宮を過ぎて山代川(淀川)を上り、私が登っていくと、奈良を過ぎて小楯(オダテ)と倭を過ぎて、私が見たかった葛城の高宮の我家の辺りです。

*仁徳天皇は実在しない架空の天皇です。参照:第203話:堀江~仁徳天皇は崇神天皇!


この歌を見てこの歌こそが私が、邪馬台国は三島、御牧(高槻・枚方)、交野であるという説に確信を持ちました。

現在の葛城は奈良県の南の方ですが、そこに山代川(淀川)を遡って行くルートはありえません。奈良はこのブログで何度も述べているように茨木市です。参照:第6話:三島(御島)本当の奈良  

葛城高宮は交野市の高津(現在の郡津:こうず)でしょう。参照:第82話:高津姫~岩船街道とすると小楯(オダテ)は枚方市で倭(やまと)は高槻市です。


山代川(淀川)から交野(葛城高宮)行くには枚方(小楯)で天の川に入らないといけません。


小楯は御館と書くべきでしょう、それとも近くに卑弥呼の館があるので、小館かもしれません。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




<台与シリーズ>


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





伊香色雄命の邸宅があったとされる意賀美神社 (枚方市):枚方市枚方上之町


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6 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Sep 21
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 佐波加刀神社読 み さわかとじんじゃ式内社 近江国伊香郡 佐波加刀神社別 名 江戸時代は「佐波加六所明神」「佐波加刀七社明神」

所在地 滋賀県長浜市木之本町川合1277御祭神 日子坐王ヒコイマスノミコ 大俣王オオマタノミコ 小俣王コマタノミコ 志夫美宿禰王シフミノスクネノミコ 沙本毘古王(狭穂彦王)サホヒコニミコ袁邪本王オザホノミコ 佐波遅比売王サワジヒメノミコ 室毘古王ムロビコノミコ御神紋 一ノ宮例祭日 4月2日

古代社格制度『延喜式神名帳』東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340近江国 155座 大 13座 小 142座伊香郡 46座  大1座  小45座

近代社格制度 旧村社創建   白鳳4年(676年)本殿様式 流造檜皮葺

JR木之本駅のすぐ東。北陸自動車道木之本I.Cから東に国道303号線を進む。高時川を渡ると左折。鳥居からは長い参道が延びている。にわかに雨が激しくなり、狭い集落内の道に駐車できる場所を捜し奥に進むと北川橋という橋があり、ケーブルが道の中ほどで固定されているので吊橋らしい。面白い行き止まり。引き返して狭い道を登り、ようやく神社にたどり着く。主祭神が但馬にもゆかりの彦坐王(日子坐王)。

本社は元、百聞山に御鎮座ありしを天平年間現在の地に遷座す。社殿は万治3年及嘉永3年に再建せられたるものなり。當社は延喜式神名帳に載せられたる近江国一百五十五座の中伊香郡四十六座の随一なり。即ち神紋は一の宮の文字を図案化せしものなり。御神像八体は明治34年3月国宝に編入せられ、更に昭和25年8月に重要文化財に指定せられたり。日子坐王の御陵墓は岐阜市岩田町北山にあり。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Sep 21
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Sep 21
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『先代旧事本紀』には、沼河比売が大国主神との間に、諏訪神社の祭神、建御名方神を生んだという異伝が記されている。


 また、『出雲国風土記』島根郡美保郷の条には、天の下造らしし大神の命が、高志の国に坐す神「意支都久辰為(おきつくしゐ)命」の子「俾都久辰為(へつくしゐ)命」の子「奴奈宜波比売(ぬながはひめ)命」と婚して「御穂須々美(みほすすみ)命」を生んだとある。奴奈宜波比売命の祖神の神名のオキツ・ヘツは「沖の」「海辺の」の意で、海神と考えられ、これによって沼河比売を海神の娘と捉える説もある。


 『古事記』『出雲国風土記』の沼河比売の神話で、出雲の神が越の沼河比売と結婚するという内容は、古代の出雲と越との間に地域的な結びつきがあったことが基盤になっているとされる。これに歴史的な背景を想定して、かつて出雲が越を服属させた歴史を示していると捉える説や、出雲が翡翠やその加工技術を越に求めた事情を反映しているとする説などがある。ただし、神話の中に史実がどの程度反映されているかは定かでなく、確証を得るのは難しい。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Sep 20
Rated 5 out of 5 stars.

二俣王も息長氏と関係が深

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