第284話~御牧(ミマキ)は宇治
私はこれまで邪馬台国=ミマキ国(御牧国)は枚方・高槻としてきました。
しかし、、、
御牧郵便曲をマップで検索してみると、枚方市内ではなく京都府久世群でした。〒613-0045京都府久世郡久御山町北川顔村西
御牧小学校は久御山町立御牧小学校でした。この辺りはかつて巨椋池があった場所です。そう言えば思いだしました。ここがウツシコオの内です。邪馬台国(ミマキ国)はこの巨椋池、河内湖を最大限に活用した水運国家だったのです。
そして、内色許男命(ウツシコヲノミコト)の内は、天王山の麓で木津川、淀川、桂川が合流地点にのすぐそばが内里(京都府八幡市内里)です。ここも巨椋池のほとりです。
そして内(うち)とは宇治(ウジ)のことだったのです。
地名「宇治」について、山城国風土記では、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ) の宮が営まれたことが地名の由来としています。しかし、日本書紀の垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られています。しかし、現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられています。宇治市史 1(宇治市役所、1973年)
私は、崇神天皇こと御牧入彦(ミマキイリヒコ)は菟道稚郎子(ウジノワキノイラッコ)ではないかと何度か書いて来ました。冒頭で述べたように御牧国は巨椋池そのものだったようです。
東からは琵琶湖を水源とする宇治川、南からは木津川、北からは桂川が巨椋池に合流し、そこから1本の淀川となって大阪湾へと流れていきます。清涼な水が満々とたたえられ、多くの水鳥や渡り鳥が飛来するなど、古くから風光明媚な景勝地として知られました。
邪馬台国は水運国家といってもよく、カモ(鴨、加茂)一族が巨椋池から河内湖(淀川)から瀬戸内海をぬけ、朝鮮、中国大陸にまで船で往来していました。巨椋池から大阪湾に抜ける海峡の要衝が南方(みなみかた)です。枚方(ひらかた)は陸路で岩船街道で生駒を超え孝霊天皇の宮がある田原本町への物資輸送の拠点です。岩船街道は饒速日が天下った場所とされ、高倉下の名前の由来となった倉治(くらじ)などの地名があります。
ウツシコオはカモ族のトップであり、三島の溝杭であると思います。そして阿遅志貴高日子根神(アジスキタカヒコネ)も「今迦毛大御神(いま・かものおおみかみ)と謂ふぞ」とありることから、カモ族のトップです。迦毛もカモです。アジスキタカヒコネ=ミマキイリヒコ(御牧入彦)です。崇神天皇は御牧国=巨椋池=邪馬台国のトップです。
関連項目:山崎津と玖賀耳之御笠
:淀津遺構
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
巨椋池
大田田根子(オオタタネコ)は、大物主が人間の娘、生玉依媛のもとに通って産ませた隠し子であったとする)とし、それまで続いていた疫病や災害を鎮めたとする伝承もあります。
彼は、父親は大物主大神で、母親は陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりびめ)であると答えた。
賀茂建角身命には玉依日子(たまよりひこ)と玉依日売(たまよりひめ)の2柱の御子神がいる。玉依日売は、丹塗矢に化身した火雷命(ほのいかづちのみこと)を床の近くに置いていたところ、可茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産したとされています(山城国風土記)。ということは、可茂別雷命は賀茂建角身命の孫です。
ということは、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は建甕槌(タケミカヅチ)で間違いないでしょう。イカヅチはミカズチの語呂合わせです。
オオタタネコことトヨミケヌはおそらく父のタケミカヅチとともに、、、p301
トヨミケヌシまたの名をカンヤマトイワレヒコ=ワカミケヌp297
陶津耳命と大田田根子 (hidemaru3375.com)
私は、アジスキタカヒコネは事代主だと思っています。味鋤高彦根命は事代主! (hidemaru3375.com)