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摂津の誕生

更新日:4月29日

第5話


崇神朝で疫病が流行り民の半数以上が死に、民(農民)は御牧国(高槻・枚方)から離反して行きます。ミマキ国は捨て去れら、いつしかミマキ国があったことさえ現在に至るまで忘れさえ去られます。


摂津の国という地名は大宝4年(704年)に初めて文献に登場します。このことはかなり奇妙なことです。日本中の国名はほぼ定まっているのにミマキ国だけは名前の450年近く国名が無い空白地帯ということです。大阪地域は、津国と呼ばれていました。これは摂津の誕生(直木考次郎古代を語る6)でのご指摘なのです。さらに直木氏は北摂という地名に違和感があり、摂津になぜ北摂が加わったかと疑問を持たれています。


私が生まれた三島郡三島町は今は摂津市になっています。摂津市ができたのは私が小学校6年で樟葉に引っ越ししてからです。誰もが忘れてしまいたい悲惨なことが北摂で起きたのではないかと想像できます。今では高級住宅地されている楠葉を糞葉とののしったのです。  

古墳時代中期に継体天皇が宮を構えるまで楠葉(ミマキ)は呪われた(祟られた)地になったのです。楠葉を糞葉とののしり、一方でヤマトは”国のまほろば”などどのたまわっているのです。


前にも述べたように三島は藤原氏との関連が深いところです。だからミマキは消されても、ミシマは地名として残ったのでしょう。




<邪馬台国の新常識>


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


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