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tootake

本当の奈良

更新日:4月28日

第18話


奈良の由来については武埴安彦命(後述)の反乱鎮圧に向かった大彦命らの軍勢が当地にあった丘(平城山丘陵)の草木を踏みならしたという『日本書紀』の記録に由来する。崇神天皇十年九月条には次のようにある。「則ち精兵(ときいくさ)を率(ゐ)て、進みて那羅山に登りて軍(いくさだち)す。時に官軍(みいくさ)屯聚(いは)みて、草木を蹢跙(ふみなら)す。因りて其の山を号(なづ)けて、那羅山と曰ふ。蹢跙、此を布瀰那羅須(ふみならす)と云ふ」。

これ自体はよくある地名由来譚であり史実とみる研究者は少ないものの、最古の史料として必ず言及されています。


地名譚はほとんどでっちあげといっても良いのですが、崇神以前には奈良盆地は奈良と呼ばれていなかった可能性が上記の資料で示唆されます。


一度、奈良=奈良県、大和=奈良県というは常識をはずしてください。

崇神天皇の前期は、大和(この場合奈良県)にはいなかったというのが学会でも通説になっているようです。


ミマキイリヒコこと崇神天皇(大和朝廷:邪馬台国)が奈良盆地に移動する前は奈良盆地には有力な豪族はいません。


藤原氏、穂積氏、物部氏、土師氏、菅原氏、阿部氏などの豪族は崇神天皇とともに奈良盆地に移動していったのです。


追記 7月28日



<邪馬台国の新常識>



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。




大阪府茨木市奈良



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