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櫛名田比売2~八雲は守口市

更新日:4月28日

第292話


八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を退治した須佐之男命(スサノオ)は、櫛になった櫛名田比売と暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国の須賀の地へ行き、そこで「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁 と詠んだとされています。


八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを


雲が何重にも立ちのぼる――雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、ちょうどその八重垣を巡らしたようになあ。


この八雲は出雲の根之堅洲国の須賀などではなく、大阪府守口市八雲です。

大阪府守口市に八雲〒570-0008という地名があります。ここは大日〒570-0003の近くです。そして対岸には味舌という地名があります。〒566-0022大阪府摂津市三島(摂津市立味舌小学校)


味舌は大日・八雲は淀川を挟んだ対岸にあります。



日本書紀で孝霊天皇の皇后は第2の一書では大目の子である真舌媛(ましたひめ)としています。味舌(ました)は摂津市の地名です。そして大目は守口市の大日であることはこのプログで何度も書いて来ました。いずれも淀川に隣接しています。真舌媛は、宗像三女神! 


このあたりはもともと大山祇の支配地であったところウガヤフキアエズが和歌山県の名草からやって来たのです。多分、紛争(戦闘)もあったのでしょう。最終的に大山祇とウガヤフキアエズ(素戔嗚=孝霊天皇)が和睦します。大山祇の娘の細姫(真舌媛)を素戔嗚に嫁がすことで和解したのです。その地が守口市の八雲です。


素戔嗚がここで真舌媛(ましたひめ)と結ばれたのは実際にあった出来事です。


スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。とあります。アシナヅチは大山祇の子とされています。大山祇は十市県主大目です。大目は大日の誤記


十市御縣坐神社(とおちのみあがたにますじんじゃ)は、奈良県橿原市にある神社です。

主祭神は豊受大神、配祀は市杵島姫命で社伝では「孝霊天皇記に見える十市県主の祖の大目を祭神とする。また、大目の娘である細媛命は孝霊天皇皇后である。」と書かれています。

皇后細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと、細比売命)は日本書紀の本文、古事記では、十市県主大目の娘。十市県主祖の真舌媛と書かれています。つまり宗像三女神の市杵島姫神(イチキシマヒメ)は真舌姫です。


市杵島姫神(イチキシマヒメ)こと真舌姫は櫛名田比売でもあったわけです。

八雲が大阪府守口市であったということは出雲神話は全くの作り話であったということです。出雲とはタケハニヤスの拠点が山代国(京都府)愛宕郡の出雲(現在は出雲路)であり、タケハニヤスが反乱を起こしたため、大和(邪馬台国)に逆らうものを出雲と呼ぶようになったのです。


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実はすでに第135話櫛名田比売(くしなだひめ) という記事を書いているのですが突っ込みが足りませんでした。八雲という地名が守口市にあったことを見落としていました。


以下は第135話で書いたことです。

素戔嗚は孝霊天皇です。素戔嗚は大山祇命の娘の神大市比売(カムオオ”イチ”ヒメ)を娶ったと古事記に書いてあります。イチというのは真下姫(細媛命)のことです。十市(イチ)県主は、市(イチ)杵島姫神です。十市(イチ)県主は、もとは春日県主で春日は茨木市(三島)です。味舌(地名〒566-0022)も三島です。そして孝霊天皇の后の出自に関して、日本書紀では磯城県主大目の娘とされ、古事記では十市県主の祖の大目(大日の誤り、大日は地名〒570-0003)の娘である細比売としています。


念のためウィキペディア(Wikipedia)も見てみると、「日本書紀の一書で孝霊天皇の皇后は春日千乳早山香媛、第2の一書では十市県主等の祖である真舌媛(ましたひめ)」としています。

・素戔嗚の妻は大山祇命の娘の神大市比売(カムオオ”イチ”ヒメ)

・孝霊天皇の后は大目(大日:十”市”県主)娘の細媛命=真舌媛=市(イチ)杵島姫神。

 よって孝霊天皇は素戔嗚であることに間違いはありません。


「クシになったヒメ→クシナダヒメ」という言葉遊びであるという説もあります。また、ヤマタノオロチを川の神として、元々は川の神に仕える巫女であったとする説もあります。


大山津見神の子である足名椎・手名椎夫婦の八柱の娘の末子で、伊邪那岐命の子須佐之男命に娶られると書いてありますが、古事記では、大山祇は、神産みにおいて伊邪那岐命伊邪那美命との間に生まれたとされています。これによっても足名椎・手名椎は架空の人物であることが分かります。


大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたといいます。「津の国の御島」とは摂津国三島(現 高槻市三島江)を指すとされています。「和多志の大神」とは渡し、つまり淀川の渡船の神だったのです。伊予国風土記



    :邪馬台国の誕生

    :銅鐸から銅鏡へ


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木(三島)、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。




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