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武埴安彦命の乱~天児屋根の陰謀

更新日:2月15日

第229話


前号で、武埴安彦命(タケハニヤス)は建甕槌(タケミカヅチ)と書きました。

天日方奇日方命=八咫烏鴨武角身命=鴨王=八咫烏鴨武角身命、山城の賀茂氏(賀茂県主)や葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神ということです。


要するに建甕槌は鴨川、淀川、木津川を支配していたと思われます。鴨王=三島の溝杭ということです。下鴨神社、貴船神社ある辺りは、タケハニヤスの根拠地である愛宕郡(おたぎぐん)です。出雲路も愛宕郡です。地球幾何学5~下賀茂神社


第65話では、タケハニヤスの乱(最終章) ~京都市北区出雲路を書きましたが、少し書き直しが必要となってきました。

第65話では、長脛彦が登場していましたが、今回の武埴安彦命の乱では、長脛彦はウマシマジによって討たれた後で、ウマシマジも根の国(出雲)に追放されてしまっています。


ウマシマジは物部の軍を大半を出雲に連れて行ったはずで、建甕槌の操れる軍は半減しています。ここに勝機を見出したのが、前号で書いたように中臣氏の祖である天児屋根命 です。建甕槌が大和朝廷のトップであることが好ましくないと思っている天児屋根です。ウマシマジは饒速日(孝元天皇)の子でしたが、建甕槌は長脛彦の子です。天児屋根はそのことに我慢ができなかったのでしょう。

記紀ではタケハニヤスは孝元天皇の子とされていますが、孝元天皇=饒速日です。饒速日は大物主と思われていますが。大物主は長脛彦です。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ) ~大物主は長脛彦 饒速日と大物主の混同による間違いです。


日本書紀では彦国葺(ヒコクニフク)が登場しています。埴安彦と川を挟んで対陣した彦国葺は、埴安彦が無道にして王室を傾ける者であると言い、埴安彦を討ち軍衆も追討したと書かれています。本当は武埴安彦命の乱ではなく、天児屋根の乱です。

中臣氏は古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉しています。その理由はよく分かりませんでしたが、中臣氏がタケミカヅチを討ったため、長脛彦のように祟られるのが怖かったため、神として祭ったと思われます。


彦国葺は春日王家ワニ氏で後の春日氏です。春日も大阪府茨木市の地名です。天児屋根=中臣氏=藤原氏と関連深い部族です。日本書紀では大彦と彦国葺がタケハニヤスを討ったことになっていますが、大彦は体力が衰えており実際は彦国葺が活躍したのでしょう。


第65話では、崇神天皇が即位する前の話として書かれていますが、今回は崇神天皇が即位した直後の話です。これは日本書紀の記述に合致しています。


第204話では、吾田媛~ハニヤス姫 そしてハニヤス姫は木花開耶姫で大山津見神の子としています。このあたりも見直しが必要となってきました。


            続く(予定)


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



彦国葺命


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