第357話
古事記では国譲りの交渉に成功したのは建御雷神(タケミカヅチ)とされていますが、日本書紀ではこの場面に主に活躍するのが経津主神で、武甕槌神(タケミカヅチ)が脇役となっています。
古事記では経津主神は、建御雷神が神武天皇に授けた剣・布都御魂となっています。出雲国造神賀詞や出雲国風土記にも布都怒志命(経津主神)が登場する一方、建御雷神はでてきません。剣としてそれを祀ったのは物部氏です。
石上神宮(奈良県天理市)の、祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)=- 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)です。第152話:経津主神は剣! では、経津主神(剣)はこの時点では、建甕槌の手にあったと思われます。と書きました。経津主神は武力の象徴です。塩土老翁と建甕槌そして経津主神は多くの神社(塩釜系)同時に三柱として同時に祭られているのです。
丸山二郎氏は建御雷神と経津主神をヤマト王権の発展と拡大に重要な役割を持った物部氏が奉斎していた神々とし、鹿島神宮と香取神宮は朝廷の祭祀を司る中臣氏と関係する以前に物部氏が東国へ進出した際に成立したものとしています。天児屋根命
大和岩雄氏は、大物主神の後裔とされる建甕槌命が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる建御雷神は中臣氏(=藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしています。この説によると鹿島に祀られている神は元々は多氏*注下記が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入したとしています。
宝賀寿男氏は、古事記の建甕槌命は古事記や旧事本紀に見られるその系図や他氏族との比較から、三輪氏の祖神で意富多々泥古命の曾祖父に位置づけています。また三輪氏と多氏はそれぞれ海神族と天孫族の出身であるとし、系図、習俗・祭祀体系からもこの二氏は全くの別族であり、建御雷神は最初から中臣氏(山祇族)の氏神であるとしています。建御雷神は天児屋命の父・興台産霊命と同一神であり、物部氏が奉斎した剣神たる経津主神と、中臣氏が奉斎した雷神たる武甕槌神とは別の神としています。
私は、海神族と天孫族は同一の一族と確信しています。海神族は呉の勝すなわちウガヤフキアエズの一族(多氏)=ウズヒコ(宇治彦)=ウツシコオ(内色許男命)で、天孫族(てんそんぞく)は、日本神話において降臨しヤマト王権をつくったとする古代勢力のことです。新撰姓氏録では天照大神などの子孫を神別の「天孫」としています。天照大神(卑弥呼)はウツシコオ(内色許男命)の姉のウツシコメです。卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
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私の考えでは、タケミカヅチは紀ノ國名草出身のヒコユキ(ヒコサチ)=ウズヒコ=ウツシコオ(内色許男命)です。参照:ヒコユキからウツシコオへ
京都の下賀茂神社の賀茂建角身命(タケツノミ)、上賀茂神社に祭られている賀茂別雷命もウツシコオだという思うにいたりました。タケミカヅチ=タケツノミです。第281話:賀茂別雷命は建甕槌
雷はイカヅチで中臣烏賊津 (第263話)のイカに通じます。タケツノミの角(ツノ)はツヌガ=アメノヒボコ=牛頭天王(スサノオ)に通じます。
邪馬台国の時代には、物部も中臣もなかったのです。
第349話:天児屋命はウツシコオ!! でやっとそのことが分かりました。
阿曇磯良は、日子波限建(ヒコナギサタケ:鵜葺草葺不合命:ウガヤフキアエズ)で天児屋根命だったのです。ウツシコオの一族です。
寺村光晴氏が言われるように、鹿島神宮は在地性が強いため、本来は土着豪族の勢力下にあり物部氏の没落後に新たな軍事と祭祀の基地が要求された結果、鹿島神宮がヤマト王権の勢力下に入り、この過程によって古事記や日本書紀には建御雷神と経津主神が混同され中臣氏はタケミカヅチを祭るようになったのでしょう。
また、大和岩雄氏の言われるように、大物主神の後裔とされる建甕槌命が建御雷神の原形で、建御雷神は中臣氏(=藤原氏)の氏神とされるようになってから中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入したのです。
関連項目:タケミカヅチはトヨ!!
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*注
多氏は、「呉の勝」です。参照:太田市と遺跡 ~呉の勝
第291話:多氏と長脛彦 第291話:隼人族は呉の勝 第256話:ウガヤフキアエズのミコト
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< 古事記・日本書紀はウツシコオ(内色許男命)の伝記です。>
記紀の作者たちは、500年前の記事を書いています。残された資料はおそらくイカガシコオが書いた資料しかありません。その資料はイカガシコオの父であるウツシコオの関連の記事でばかりであることは間違いないでしょう。
当時の日本で文字を読める人物はほとんどおらず、ましてや歴史書などをかける者などいるはずがありません。イカガシコオは偉大な父の実績を残しておきたかったのでしょう。
記紀の作者たちは、イカガシコオはの書いた伝記を参照にして日本書紀・古事記を書いたのです。自分たちの都合の良いようにウツシコオを様々な別の人物として再構成したのです。 第116話:古事記・日本書紀とQ資料
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
武御雷 Type-00R / keito さんのイラスト - ニコニコ静画 (イラスト)
seiga.nicovideo.jp|426 × 600 jpeg|4 年前
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子