top of page
  • tootake

淡路島と伊弉諾(いざなぎ)


第160話


記紀は、神話の記述をイザナギ、イザナミの国生みから始めています。その国生みの冒頭に現れるのが、淡路島です。伊弉諾(いざなぎ)を祭る神社が淡路島にあります。伊弉諾神宮で『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあるため、本来は伊弉諾尊のみを祀ったと考えられています。その伊弉諾神宮の近くにあるのが、垣内遺跡です。


弥生時代後期の鉄器生産工房として使われた竪穴建物23軒から成っており、うち12軒から鉄を加工した炉跡の遺構が確認されました。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土しています。1軒の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器生産遺跡としては、最大規模です。住居として使われた竪穴建物は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が分かっています。


上垣内憲一先生は、淡路島で鉄器を製造していた集団こそが神武天皇を統率者とする集団の母体になったと考えておられます。「謎の四世紀」p142

淡路島に神武天皇幼名とされる佐野(さの〒 656-2212)という地名がありこの地が神武東征の出発点と考えられ更なる鉄を求めて淡路島から大阪府の佐野(和泉佐野)に移動したと考えられるとされておられます。


淡路島の佐野付近に小井(おい)という地名があります。この地は古事記の仁徳天皇条にある「淡路の寒泉」の伝承地とされています。「朝夕に淡路島の寒泉(しみず)を酌んで大御水(おおみもい)として献上した」との記述が残り、天皇の御料水として運ばれたことが分かる内容で、大阪湾を渡って名水を運ぶ海人(あま)の姿を想像させるとともに、大和王権との関わりの深さをうかがわせます。


伝説の船である高速船「枯野」(※注下記)によって朝夕に運んだとされるは水は御井(おい)は淡路島の佐野付近の小井(おい)と思われます。


                  {参考文献}「謎の四世紀」上垣内憲一


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(※注下記)   

枯野という船は高速船であったようです。

<枯野>和名抄によると、「牧むまき」の周縁地で、その野に一面に草が枯れ広がっていると、それはすべて干し草、馬の飼葉に利用できる。ふつう、干し草は刈り取った草を乾燥させて利用する。そして飼葉桶に入れて馬に与える。野が一面に枯れている情景は、飼葉桶に入れるような干し草がたくさんできあがっている状態ということになる。それほど食べれば馬はよく育ち、「疾行如レ馳」と呼ぶに値して速く走ることであろう。そして、飼葉桶は「槽ふね」である。フネとは、船の形をしたもののことである。「牧むまき」は枚方市牧野です。

   

※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


伊弉諾神宮


閲覧数:58回4件のコメント

最新記事

すべて表示

4 Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
tootake
Nov 27, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

『日本書紀』の記事とは、「崇神紀」にある次のものです。44 出雲フルネと古代出雲の祭祀 - 小春奈日和 (goo.ne.jp)


 天皇(10代崇神天皇)は、出雲大神の宮にある神宝を見たいと望まれたの

で、矢田部造の遠祖タケモロスミ(武諸隅)を派遣した。

 出雲の神宝は、出雲臣の遠祖イズモフルネ(出雲振根)が管理をしていたが、

ちょうどその時筑紫に出向いており不在だった。

 それで、イズモフルネの弟イイイリネ(飯入根)が代わりに勅命を承り、弟

のウマシカラヒサとその子のウカヅクネに神宝を献上させた。

 その後、筑紫から戻ってきたフルネは、このことを聞き、

 「なぜ神宝を渡したのか!」

と、激怒し、その怒りは収まることなく、ついには弟を殺してしまおうと考え

た。

 フルネは、真剣そっくりの木刀を作らせると、イイイリネを、

 「近頃、止屋の淵に藻がたくさん発生した。それを見に行くのだがお前も一

緒に来てくれるか?」

と、声をかけて誘い出した。

 二人で止屋の淵まで行くと、

 「淵の水は清らかではないか。せっかくだから、ここで一緒に沐浴しよう」

と、フルネが言った。

 二人はともに沐浴をして、先にフルネが水中から上がると弟の太刀を佩き、

剣を抜いた。

 イイイリネは驚いて兄の太刀を手にしたが、これは本物に似せて作った木刀

であったから、フルネに斬り殺されてしまった。

 このことで、人々は、


 八雲たつ イズモタケルが 佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さわ)巻き 

さ身なしにあわれ


と、歌った。

 ウマシカラヒサとウカヅクネは朝廷に参上し、事の次第を伝えた。

 天皇は、キビツヒコ(吉備津彦)とタケヌナカワワケ(武渟川別)を遣わし

てイズモフルネを討たせた。

 この一件以来、出雲臣たちが大神を祭祀することをやめてしまった期間が

生じた。

 時に丹波の氷上郡の人でヒカトベ(氷香刀辺)が、皇太子イクメノミコト

(活目命=後の11代垂仁天皇)に、次のような訴えをした。

 「私には子がおり、まだこどもなのですが、それがこのようなことを言い

出したのです。


 玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御

宝主 山河の水泳る(みずくくる)御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主」

 皇太子は天皇にこのことを報告し、天皇は出雲の大神の祭祀を復活させる

よう勅命を出した。


 崇神天皇が見たいと言った出雲大神の宮にある神宝とは何だったのでしょう

か。『日本書紀』には、「武日照命(タケヒナテルノミコト)が天より持ち来

れる神宝」と記し、タケヒナテルについては、「一に云わく、武夷鳥(タケヒ

ナトリ)という。又云わく、天夷鳥(アメノヒナトリ)という」との注釈を付

けています。


 『古事記』には、

「アメノホヒノミコト(天菩比命)の子タケヒラトリノミコト(武比良鳥命)

は出雲国造らの祖」

と、あり、出雲国造の神賀詞には、天孫降臨の使者として、アメノホヒの子

アメノヒナトリノミコト(天夷鳥命)にフツヌシノミコト(布都怒志命)を副

えて遣わしたとあります。


 つまり、出雲大神の宮にある神宝とは、オオナムチ(オオクニヌシ)ではな

く、アメノヒナトリの神宝だったわけです。


 それから、大和からの使者タケモロスミが出雲に来たとき、フルネは筑紫に

行っていて不在だったとありますが、もしかすると現在の宗像市を含む広範囲

な地域を指していた可能性もあります。

 そうすれば、沖ノ島も含まれるわけで、沖ノ島の宗像大社奥津宮祭祀遺跡と

出雲大社境内遺跡に見られる古代祭祀の共通性から、宗教的な用件で北九州方

面に出かけていたと考えられ、そこから、フルネが古代出雲の信仰に携わって

いたことが想像できます。(第40回「大国主と宗像大社の3女神」)

Edited
Like


tootake
Nov 26, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。

  • 『日本書紀』

    • 本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)は五十猛

    • 亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)


稚武彦命(わかたけひこのみこと[1])は、饒速日

日本書紀』では「稚武彦命」、『古事記』では「若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」「若建吉備津日子命」、他文献では「若武彦命」とも表記される。

第7代孝霊天皇皇子で、吉備臣(吉備氏)の遠祖。「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」と称されることもあるが、その呼称では一般に兄の彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命)を指す場合が多い。

彦五十狭芹彦命 (吉備津彦命)稚武彦命

(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

第7代孝霊天皇と、絙某弟(はえいろど、蠅伊呂杼)との間に生まれた皇子である[1]。同母兄には彦狭島命(日子寤間命)がいる。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏祖で四道将軍の1人の彦五十狭芹彦命(比古伊佐勢理毘古命、吉備津彦命)が知られる。

Edited
Like

tootake
Nov 23, 2023
Rated 5 out of 5 stars.
Like
bottom of page