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牛鹿臣はウツシコオ!

更新日:7月25日

第374話


第371話と第372話で述べた彦狭島命(ひこさしまのみこと)は、播磨国の牛鹿臣のこととされています。牛鹿臣(うしかのおみ)は宇自可・宇自賀・宇自加とも書かれ、文献では播磨地域で重要な役割を果たしていたことが分かります。第371話:彦狭島命~吉備児島  第372話:建日方別:彦狭嶋命 2

 

古事記の孝霊系譜では、針間牛鹿臣は、宇自可臣とみえ、孝霊天皇の御子、彦狭島命の後なりと記されることから、彦狭島ではないかとされているのです。牛鹿臣の本拠地とみられる牛鹿屯倉は、兵庫県姫路市四郷町本郷とされてきましたが、近年、三宅と書かれた墨書土器が出土した高砂市曽根町の塩田遺跡に比定する説があります。『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:姫路市


塩田遺跡は日笠山丘陵東麓、天川東岸に位置し、付近を山陽道が通る交通の要衝で、南東2kmの「竜山」は、古墳時代に石棺材として広域で使用された流紋岩質凝灰岩の産地として知られます。塩田遺跡の東8.3km、加古川左岸に、日岡神社(兵庫県加古川市加古川町大野)があります。祭神の天伊佐佐比古(あめのいささひこのみこと)は彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ:吉備津彦命の本名)とされています。ささは、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王のキーワードの一つです。ささは五十=イソということです。(後述予定)


第371話で述べたように「彦狭島」の「狭島」は「鹿島」と同義で、北方にそびえる高御位山を中心とする播磨アルプスに、複数の鹿島神社が点在します。


牛鹿屯倉は加古川に近く、牛鹿臣の拠点は、日岡を含む、加古川河口の港津にまで及ぶもので、吉備国の平定したのは、牛鹿臣こと日子寤間(彦狭島)です。


古事記の孝霊系譜では「日子寤間:日子刺肩別:ひこさしま=彦狭島命」の後裔氏族として角鹿海直が祀られている越前国敦賀郡の気比神社の神は、仲哀記に「伊奢沙和気大神」と記されています。


「天伊佐佐比古命」と「伊奢沙和気大神」は、「いささ」という名を共有し、また、「日子刺肩別」の弟神である「比古伊佐勢理毘古」の「いさせり」も音が似ています。

「天伊佐佐比古」「伊佐佐辺」の「いさ」は、「磯(いそ)」を意味し、「磯部(石辺・石部・伊勢部)」に通じるもので、「彦狭島」と密接に関わる観念とみられます。

気比(けひ)はキビとも読めることから、越前(福井県)と吉備(岡山県)との関係がうかがえます。磯はイソで、五十の付く五十猛(イタケル)、彦五十瀬とも関係があります。参照:ウガヤフキアエズのミコト


岡山には、他にも牛の付く地名があります。牛窓の地名の由来となった「牛転(うしまろび)」伝説が牛窓神社に残っています。「備前風土記逸文」に記された伝説によれば、神功皇后が船で海を渡っていた時に大きな牛鬼が現れ、それを老人に化けた住吉明神が角をつかんで海へ投げ倒した、つまり牛が転んだ「牛転(うしまろび)」から訛って牛窓になったといわれていいます。高台にある牛窓神社の眼下に広がる前島や黒島など五つの島は、牛鬼がばらばらになって島になったと伝えられています。


私は、これまでウツシコオ(内色許男命)のことを、アメノヒボコ~ツヌガアラシヒト、タケツノミ、牛頭天王としてきました。参照:牛頭天王(スサノオ)はアメノヒボコ? アメノヒボコはウツシコオ 事代主=賀茂建身命(たけつのみ)=八咫烏です。八咫烏もウツシコオ


この三者に共通するものは何かといえば、ツノ(角)です。そして牛鹿臣の名前、牛としかに共通するのは角(ツノ)です。おそらくウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王は戦の時、角(ツノ)のついた兜をかぶっていたのでしょう。


そして各地にある鬼伝説もウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王と関連があると私は思っています。ツノ(角)→鬼の連想からの発想です。例えば、桃太郎が退治した鬼の名前はウラ(温羅)です。ウツシコオは浦嶋太郎でもありました。ウラは浦嶋のウラです。


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後記 2024.7.25


七尾市中島町宮前ホ部に久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこ)があります。「おくまかぶと」として親しまれています。祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱ですが、もともとは、ツヌガアラシヒト(アメノヒボコ)だけだったと思います。

熊の兜をかぶったウツシコオを想像すると笑ってしまいました。

尾市中島町宮前ホ部



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
13 ביולי
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江戸時代に著された「五ヶ井由来記」(明暦3年(1657年)10月頃成立?)が語る伝説によれば、加古川の下流域左岸の基幹となる井筋である五ヶ井用水は、日向明神(日岡神社の神)と聖徳太子が心を合わせて築いたものであるという[9]。その合意は、日向山の近くの「荒ヶ瀬二つ橋」で行われたため、この橋のことを「談合橋」という別名で呼ぶようになったといわれる[9]

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
09 ביולי
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