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狭穂姫命~狭穂毘古の乱

更新日:3月6日

第250話


崇神天皇の時代に起こった反乱はタケハニヤスの乱ですが、崇神天皇の次の天皇である垂仁天皇のときには、狭穂毘古の乱がおこっています。


狭穂毘古の妹は狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。

反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。


※この炎に包まれて生まれた子が本牟智和気御子が前号で書いた物言えぬ皇子の本牟智和気御子(応神天皇)です。


※ところでこの反乱はどこで起こったかというと、大阪府の茨木市の佐保〒568-0095であるとされるのは、九州王朝説で有名な古田武彦氏です。

垂仁天皇は崇神天皇の息子である豊城入彦命の子孫に当たる八綱田に狭穂彦王討伐の命令を下した。その知らせを聞いた狭穂彦王は急いで稲を城塞として積み上げて、その城をなかなか突破できなかった。この稲を城塞にしていうのは俵に土を詰めて積み上げたもので稲垣(いながき)から茨木(いばらき)になったいいます。

さらに古田武彦氏は「皆奪其地」と「取る」あることから本来サホ(佐保)は大和朝廷の支配地ではなかったとされておられます。狭穂毘古は大和朝廷のから独立したクニの王だったのです。「失われた九州王朝」p234


なお私は、崇神天皇の時代に疫病が起こったため、茨木・高槻(御牧国)を放棄し奈良県に移ったと考えていますので、サホは奈良県にある佐保村(さほむら)~添上郡にあった村:現在の奈良市中心部の北方、佐保川右岸だと思っています。邪馬台国で疫病発生


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



       炎に包まれる狭穂姫命(月岡芳年画)


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 20
Rated 5 out of 5 stars.

物部の誕生、ウジノワキノイラッコと仏教、厩戸皇子

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 05
Rated 5 out of 5 stars.

また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。


※多須美知能宇斯王というのが丹波道主命(たにはのみちぬし)です。開化天皇皇子彦坐王の子で、日本書紀によれば、崇神天皇の時代に北陸,東海,山陽,山陰に派遣された四道将軍のひとりで、丹波の平定を命じられたとされています。また、垂仁天皇の后の狭穂姫が、兄の狭穂彦の謀反に協力して死んだのち、あらたに迎えられたのが娘の日葉酢媛命(ひばす姫)です。

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