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猿丸幻想(2)~柿本人麻呂

更新日:7月14日

第377話~柿本人麻呂はウツシコオ


前回(猿丸大夫)の続きです。

猿丸大夫は、元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物ともいわれているのですが、伝承は全く不明です。古今和歌集の真名序(漢文の序)では六歌仙のひとりである大友黒主について、「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」とあり、少なくとも古今和歌集が撰ばれた頃には、それ以前の時代の人物として知られていたようです。


猿丸大夫という名については公的史料に登場しないことから、本名ではないとする考えが古くからあります。猿丸と人麻呂は同一人物ではないのかとするのは、哲学者の梅原猛です。「水底の歌-柿本人麻呂論」において、猿丸大夫と柿本人麻呂は同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者がいます。


「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」  は柿本人麻呂の代表作です。


人麻呂は、多氏です。第304話:隼人族では、隼人族と「呉の勝」=多氏との共通点が多いことを発見しました。第48話:太田市と遺跡 ~呉の勝 第291話:多氏と長脛彦

ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王神八井耳を祖にしていると私は思っています。つまりウツシコオ=猿丸大夫も多氏です。


万葉集の原型というべき巻1の前半部分(1 -53番)は、柿本人麻呂が関与したことが推測されています。人麻呂自体が謎の人物なのです。人麻呂という名前自体が、ふざけてます。人麻呂とは「人間麿:にんげん君」というくらいの意味です。


各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされています。古今和歌集:真名序では五位以上を示す大夫を付して「柿本大夫」と記され、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ(大王の位)」と書かれています。また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であった筈です。猿丸も大夫で「マウチギミ」=天皇のそば近く仕える者、すなわち大臣や側近でした。


柿本人麻呂の終焉の地も定かではありませんが、有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(旧・石見国)にあります。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えています。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる鴨島でした。今は鴨島は存在していません。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり、水没したといわれています。


鴨は、カモ族を表します。ウツシコオは鴨王(かものきみ)です。参照:鴨王~瀬戸内海


伊勢部柿本神社(いせべかきもとじんじゃ)は、和歌山県海南市日方にあります。

伊勢は、イソ「磯(いそ)」を意味し、「磯部(石辺・石部・伊勢部)」に通じるもので、「彦狭島」とも密接に関わる観念とみられます。参照:彦狭島命~吉備児島


*柿本神社(かきのもとじんじゃ)は柿本人麻呂を主祭神として祀る神社で日本各地に多数存在します。

柿本神社 (明石市) - 兵庫県明石市鎮座

柿本神社 (葛城市) - 奈良県葛城市鎮座

*伊勢部柿本神社 - 和歌山県海南市日方鎮座

高津柿本神社 - 島根県益田市高津町鎮座

戸田柿本神社 - 島根県益田市戸田町鎮座

*伊勢部柿本神社 だけは、柿本人麻呂を祭神としていません。ただし、元伊勢神社の伝承のある神社の一つです。


伊勢部柿本神社の伊勢はイソの意味です。参照:伊勢津彦はタケミナカタ

イソはイソタケルのイソです。阿曇磯良(あづみのいそら、安曇良)のイソです。ウガヤフキアエズ:天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)の「なぎさたけ」と「いそたける」は同じ意味です。渚は名草(和歌山市)です。渚はイソ(磯)です。 五十猛彦は饒速日!  五十猛と五瀬命


そして和歌山県海南市日方とは、、、


建日方別=彦狭嶋の別名である天日方奇日方命には日方が2つも入っていますと、第372話:建日方別:彦狭嶋命 2 で書きました。天日方奇日方命もウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。(*第227話:天日方奇日方命では、検証が不十分なのでいずれ書き直します。)天日方奇日方命 *」の「日方」が「日向」と関連しているかどうかについては、特定の文献や神話によって異なる見解がありますが、一部の説では、「日方」が「日向」を指すとされています。日向は日本の地名で、現在の宮崎県を指すとすべての研究者は思っているようですが、このブログでは、日向は守口市です。 日向は大阪府守口市としましたが、日方奇日方命の日方とは、和歌山県海南市日方であったのです。


ここは私がウガヤフキアエズが生まれた場所、ヒコサチが生まれた場所とする。名草(和歌山県和歌山市)の近くです。


和歌山の和歌とは、むろん猿丸大夫=柿本人麻呂が読む和歌です。



関連項目:猿丸幻想(1)


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 13
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下巻に登場する小野猿丸という人物の由来は古いらしく、南北朝時代に成立した『神道集』の「日光権現事」には、「往昔ニ赤城ノ大明神ト諍(アラソヒ)ツ、唵佐羅麼ヲ語(カタラヒ)…」とあり、この「唵佐羅麼」を「オンサラマ」と読みこれが小野猿丸のことだという。文明16年(1484年)の年紀がある『宇都宮大明神代々奇瑞之事』にはその名を「温左郎麿」(おんのさろうまろ)とするので、「唵佐羅麼」の「麼」とは「麿」の誤写の可能性もあるが、いずれにしても小野猿丸という名前そのままではないようである。ちなみに宇都宮二荒山神社は祭神を太郎大明神とするが、祭神はこの小野猿丸であるという伝承があったことを林羅山著の『二荒山神伝』他は記している。


南会津地方では弓の名手である猿丸は、日光権現を助けた猟師の始祖であり守り神であるという信仰があり、その地方の猟師は猿丸の子孫と称し、これを祀ることがあったという。また鎌倉時代後期の成立といわれる『続古事談』の巻第四には、「宇都宮は権現の別宮也。狩人、鹿の頭を供祭物にすとぞ」という記事がある。宇都宮とは宇都宮二荒山神社のことで、この社に狩人が獲物の鹿の首を祭の供え物として奉納していたということである。『日光山縁起』も含めこれらからは、狩人すなわち猟師たちには宇都宮はもとより日光山に対する信仰が古くからあり、そして日光山をめぐる伝説の中に自分たち猟師の代表として、「小野猿丸」(もとからこの名だったという保証はないが)という人物を形成していったと見るのは容易である。日光山縁起

南会津地方では弓の名手である猿丸は、日光権現を助けた猟師の始祖であり守り神であるという信仰があり、その地方の猟師は猿丸の子孫と称し、これを祀ることがあったという。また鎌倉時代後期の成立といわれる『続古事談』の巻第四には、「宇都宮は権現の別宮也。狩人、鹿の頭を供祭物にすとぞ」という記事がある。宇都宮とは宇都宮二荒山神社のことで、この社に狩人が獲物の鹿の首を祭の供え物として奉納していたということである。『日光山縁起』も含めこれらからは、狩人すなわち猟師たちには宇都宮はもとより日光山に対する信仰が古くからあり、そして日光山をめぐる伝説の中に自分たち猟師の代表として、「小野猿丸」(もとからこの名だったという保証はないが)という人物を形成していったと見るのは容易である。

この猿丸は『日光山縁起』の本文でも見られるように、民間伝承では三十六歌仙猿丸大夫と結び付けられる。猿丸大夫は『古今和歌集』の真名序(漢文の序)にその名が出てくるほかは一切が不明の人物である。しかし小野猿丸というのが当初からの名ではなく、古くは「唵佐羅麼」(或いは「唵佐羅麿」)ともまた「温左郎麿」とも称したのであれば、同じ「猿」つながりでの後付けによる付会の可能性が高いといえる。なんにせよ小野猿丸は伝説上の人物であり、その実在を確認することはできない。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 12
Rated 5 out of 5 stars.
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