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猿丸幻想(3)~宇都宮は兎の都

更新日:10月15日

第378話


下野国河内郡二荒山神社は栃木県宇都宮市馬場通りにあります。

主祭神は豊城入彦命。日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別するために「宇都宮二荒山神社」と呼ばれています。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれ、現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれます。東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきました。


宇都宮明神、はかつて猿丸社とも呼ばれていました。

日光山縁起に拠ると、小野(陸奥国小野郷)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話があります。

この社に狩人が獲物の鹿の首を祭の供え物として奉納していたということです。鹿=角はウツシコのシンボルの一つです。参照:牛鹿臣はウツシコオ!


この猿丸は、日光山縁起や、民間伝承では三十六歌仙の猿丸大夫と結び付けられています。

下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わっています。江戸時代初期の儒学者林道春が、日光二荒山神社の歴史について書いた「二荒山神伝」にも、同様の伝承が記されています。


二荒山神社をなぜ宇都宮と呼称するようになったかについて諸説がありますが、まつろわぬ者を平げる征討の宮がいますところ「うつ(征討)の宮」であるとも、日光からうつし祀った社「うつしの宮」であるとも、河内郡の樹木の鬱蒼と茂る丘上に鎮座する「内の宮」「鬱の宮」「堆の宮」であるとも、下野国「一の宮」の転化であるともいいます。


私などは、ウツと聞くとウツシコオのウツと思ってしまいますが、宇都宮のウツは兎のことだそうです。宇佐家(ウサ*下記)の氏神は、ウサ神ですなわち兎神だそうです。第371話:彦狭島命~吉備児島 で述べた彦狭島命は、兎塚丘に祭ったとされています。


第129話:菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)では、地名「宇治」について、山城国風土記では、日本書紀の垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることから、菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られています。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられています。宇治市史 1(宇治市役所、1973年)と書いています。


実際、宇治にいくと今でも街中で兎道と書いてあるのを見かけます。つまり、宇治は菟道と表記されることが多かったようです。


宇都宮二荒山神社の社伝では「宇都宮」という地名はこの神社に由来するものとされています。一宮(いちのみや)の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそれが「うつのみや」に転じたという説など諸説がありますが、やはり、内里(京都府八幡市内里)のウチが由来というのが一番しっくりします。内里はウツシコオ・ウツシコメ姉弟の拠点地の一つです。


*なんでこんなところで宇佐家が出てくるのかは、次回で書く予定です。→宇佐神宮・北辰の神・豊日別宮

宇佐氏は記紀で、神武朝の菟狭津彦命(うさつひこのみこと)を家祖とし、宇佐国造を世襲したとされ、菟狭津彦命の父は、高皇産霊尊の子の天活玉命の子である天三降命とされ、天三降命は、先代旧事本紀:天神本紀に豊国宇佐国造等の祖として登場し、同書神代系紀にも神世七代の一柱として登場しています。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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6件のコメント

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7月14日
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言語・文化については、他の地方と大きく異なっていたとされる[注 1]大宝律令』では、「異人」と記されている。

続日本紀養老6年(721年)4月16日条の記述に、「陸奥の蝦夷・薩摩の隼人らを征討した将軍(以下略)、通訳者に地位・功績に応じて勲位を授ける」とあり、通訳者を必要とした。


宮中の守護に当たるほか[注 2]、芸能、相撲、竹細工などを行った


様々な形で竹の文化を有していたとされ、コノハナサクヤヒメのお産の際、へその緒を竹の刀で切るのも関連するものと見られる[11]。『延喜式』隼人司の記述では、竹笠の製作も担当していた。

竹取物語』が南山城、つまり隼人の居住地で生まれた可能性も指摘されている[24]

特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった[注 4]『古事記』、『日本書紀』及び『続日本紀』に度々記述され、朝廷に御調を貢進すると共に行われ、あるいは海外異国の客人の前でも舞われていたが、その後途絶えてしまい、具体的な芸態は不明であり、その実態については諸説にわかれている。

また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人の楯」が発掘されており、独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』の記述と合致している)。

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秀丸 遠嶽
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■ 宇梶(うかじ)

【2016/12/02:新載】

# 全国の大半は栃木県にみられ、宇都宮市にまとまってみられる。

# 俳優の宇梶剛士は東京都の出身。

■ 宇加地(うかじ)

【2022/01/06:改編】

# 下野国河内郡白沢村(栃木県河内郡河内町・現宇都宮市)に素封家の宇加地氏がいた。白沢村の庄屋と奥州街道の白沢宿の本陣をかねた。【出典

# 栃木県の宇加地家: 下野国河内郡白沢村(栃木県宇都宮市)の素封家。庄屋と奥州街道の白沢宿の本陣を努めた。【出典

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7月14日
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神幸の経路は、8月9日、草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て、11日、祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て、13日、凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。14日、法会と伝戒があり、15日朝、海に蜷や貝を放流する。


神幸の経路は、8月9日、草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て、11日、祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て、13日、凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。14日、法会と伝戒があり、15日朝、海に蜷や貝を放流する。

宇佐神宮に対して度々行われる官幣の奉納に際しては、その後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7月13日
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高瀬神社 (守口市) - Wikipedia


主祭神の天之御中主神は当時の主神天照大神よりも古い神であることからもう少し時代を遡るとする説もある。現に、当社の付近から出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、この地では約二千年も前から祭祀が行われていたと推測されている[1]

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