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猿田彦は異国人(あたしくにのひと)

第380話~異俗(あたしくにのひと)



平安時代初期の帝・嵯峨天皇の手によるとされる田邑麻呂伝記によると、「大将軍(田村麻呂)」の身長は五尺八寸(約176センチ)、胸板の厚さ一尺二寸(横幅約36センチの厚さの胸板という意味)、体重は多い時で201斤(約120キロ)もあったといいます。

そして容貌は「目は蒼鷹(そうよう)の眸(ひとみ)を写し、髪は黄金の縷(る)を繋」いだようだったとあります。坂上田村麻呂の系図上、不詳となっている彼の生母も外国生まれとされ、はるか西方からやってきた女性だったのではないかと考えられます。


田村麻呂は、白人系、もしくはペルシャ系の血脈であることをうかがわせる美丈夫だったということになるります。


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これと同じ容貌の人物のことをこのブログで書いたことがあります。第88話:猿田彦


日本書紀では、邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいました。その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿でした。


「一柱の神有りて天八達之衢あまのやちまたに居り。其の鼻の長さ七咫ななあた、背そびらの長たけ七尺ななさかあまり。まさに七尋ななひろと言うべし。また口尻くちわき明り光れり。眼は八咫鏡の如くして然てりかがやけること赤酸醬あかかがち(ほおずき)に似たり」。これが猿田彦が登場する場面です。


私は、これまでこのブログでアタは、

※阿多(アタ)は反逆者という意味です。牧尾一彦著 「邪馬台国と神天皇」p425には賊虜=アタ、賊とは悪人、虜とは敵を罵る言葉、阿多(アタ)は逆賊と書かれています。

日本書紀に仲哀天皇は(アタ:この場合は熊襲)の矢に中(あたり)て崩(かむあがり)ましぬとあります。としてきました。


しかし、アタとは、異俗(あたしくにのひと)のことだったようです。猿田彦が、白人系、もしくはペルシャ系の血脈を持つのであったなら、彼らの一族(呉の勝)がアタ(異俗)と呼ばれるのは当然です。


隼人もアタ薩摩半島一帯に居住していた薩摩隼人が阿多(アタ)隼人です。大宝律令では、「異人」と記されています。隼人は言語・文化については、隼人の言葉は他の地方と大きく異なっていたとされています。隼人は、大住(京都府京田辺市)に住んでいました。大住(大隅)とは貴人の住む場所という意味もあります。隼人一族は、7世紀から8世紀にかけて、朝廷は、京都府田辺市から南九州への集団移住させられたという記録があります。


京都府田辺市付近には天王という地名が今でも残っています。天王とはスサノオのことです。大住(おおすみ)は、京都府京田辺市です。中世には「隼人荘」と呼ばれていました。

京田辺市は、枚方市の楠葉、津田、宇治市、男山市に近く、ウツシコオ(内色許男命)の内里です。参照:スサノオは津田の王



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>



坂上田村麻呂「月百姿音羽山月 田村明神/国立国会図書館蔵




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 16
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「日本書紀」の編纂は、681年に天武天皇の命により始まり、720年に完成しました12。つまり、約40年かかりました3

日本書紀 - Wikipedia


乙巳の変戦争:乙巳の変年月日:645年(皇極天皇4年)6月12日-13日

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年大宝元年)に制定された日本律令。「」6巻、「」11巻の全17巻。の律令を参考にしたと考えられている。


推古天皇34年5月20日626年6月19日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇36年3月7日628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。


『日本書紀』の編纂は恐らくは長い期間と複数の撰修者の手によったと見られ、巻によって分担して編集されたものと考えられる[63][64]。この結果として、担当した人間の漢文能力、筆癖、使用語句の特徴などが各巻に反映されることとなった。現代の学者は様々な着眼点によってこれらの特徴を洗い出し、いくつかのグループに分類する区分論を発達させてきた。区分において特に重要な指標となるのは同じような語句の使用傾向や用いられている万葉仮名の日本語と漢字音の対応(音韻の対応)、そして漢文の文法的誤りや日本語独特の発想による文章(和習)の分布などである[65][66]

当初の区分論は使用語句・仮名字種・分註件数の偏在などに着目して行われ、『日本書紀』が巻1系と巻14系に二分できることが明らかにされていった[67]。森博達は、区分論の鏑矢となったのは岡田正之であり、岡田の遺稿『近江奈良朝の漢文学』(1929年)を『日本書紀』区分論の幕開けと評価している[64]。1934年には福田良輔が分註の「之」字の用法に着目した語法分析による区分論を開拓した[67]藤井信夫は歴代の即位定都(神武天皇の場合の「辛酉年、春正月、庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」のように、即位に伴って宮について記されている記事)の書き方によって『日本書紀』を10のグループに分類し[63]鴻巣隼雄は「祖先」を意味する語として「始祖・皇祖」が用いられる巻(巻3-13、巻22-27)と、「先」が用いられる巻(巻14-21)に分類した[68]。これらの区分論は細分化の程度に差はあっても、異なる着眼点によって分類されたもの同士の間で概ね一致した結果が得られている[63]。区分論のいくつかの例を以下に示す。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 16
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摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で[2]佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇を避けて伴氏に改称。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 15
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越智氏(おちうじ)は、「越智」をの名とする氏族

古代日本伊予国愛媛県)の豪族の一つ[3]。その由来は伊予守輩出や、南海道の発展から伊予越智氏と関係があったとする説もあるが、立証はなく関係性があったかは不明である。

越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされる[3]4世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛西部に五国造が設置され、中央豪族が地域の支配者に任じられた。そのうちひとつである物部氏の大新河命の孫の小致命(おちのみこと)が小市国造である越智氏の始まりとされている(『国造本紀』)。『新撰姓氏録』では左京の神別氏族として越智直が神饒速日命の後と見える[4]

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 15
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天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、大伴室屋の時に大伴氏から別れた神別氏族である[1][2]。王権に仕え、宮廷警備等の任につくようになった後、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説がある(歴史的仮名遣では「さへき」、現代仮名遣いでは「さえき」)。訛音として「さいき」(「さゐき」)がある。

中央伴造として佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた。因みに警備を担当した宮門は、


空海

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秀丸 遠嶽
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Jul 15
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