第123話~邪馬台国前史7
BC219年 渚姫はせっかく建てた渚の御殿にほとんど住んでいなかった。
渚は枚方台地の坂の下で、いざという時の防御には不向きだと気付き、大歳は崖の上の広い台地に防御陣地を兼ね備えた宮殿が造営していた。
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枚方はアイヌ語で崖(ピラ)の上(カタ)という意味です。崖の上は広い台地で禁野(きんや)と呼ばれていた。禁野の禁は、禁中つまり宮中のことで天皇の領地ということです。
枚方市禁野〒573-1197
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渚姫と彦幸は、もっぱら山代の内里に居住していた。内里は、当時は巨椋池(おぐら池)と繋がっており木津川、桂川、瀬田川がこの地で合流しており、水上交通の中継地として重要な場所として栄えていた。内里の近くには、奈良という地名があり、三島の奈良とともに物資の中継地点だった。渚姫と彦幸は、名草で培った交易のノウハウを知っており、そこで物資のやり取りを任されていた。渚姫と彦幸は、”ウツ”シコメと”ウツ”シコオと呼ばれるようになっていました。ウツは内里の”ウチ”です。〒614-8227
極めて重要な大規模遺跡である安満遺跡も内里の近隣です。
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この内里のすぐそばに男山があり、頂上には石清水八幡宮が建っています。
平安時代の貞観年間に大安寺僧の行教が大分県の宇佐八幡宮で八幡大菩薩のお告げを受け、それを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が造営されたとする説があります。
祭神は応神天皇、比咩大神(ひめおおかみ)、神功皇后で八幡三所大神と総称されています。比売神(比売大神、比咩神)は、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものとされています。宇佐神宮などの八幡宮は宗像三神のことであるとしています。
何人かの研究者はこの比咩大神(ひめおおかみ)こそが卑弥呼だと主張しています。
私の考えでは、ウツシコメは卑弥呼ですから。内里のすぐそばにある男山に石清水八幡宮が建てられる前から祭られていた可能性は十分に考えられます。
神功皇后と卑弥呼には共通点があります。というより記紀の記紀の著者たちは、魏志倭人伝読んでいたと思われ、卑弥呼をモデルに神功皇后を創作したと考えられています。神功皇后は仲哀天皇の后で天皇の死後に摂政になっています。卑弥呼も孝元天皇(饒速日)が死んだあと、邪馬台国を取り仕切っていたと思われます。
そして、神功皇后も卑弥呼も新羅に攻め込んでいます(下記)。
私の考えでは応神天皇は開化天皇で大彦です。八幡は武の神として多くの武将に信仰されていました。武神・弓矢の神・必勝の神は大彦がピッタリです。
応神天皇の異母兄たちは、叛乱を起こしましたが鎮圧されています。
大彦も反乱を起こした異母兄のタケハニヤスを鎮圧しています。
卑弥呼が新羅に攻め込むとは、どういうことかいうと、百済記にこんな記事があるからです。
「壬午年、新羅は日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。」
壬午年がBCでいうと何年になるかは検討中ですが、それよりも沙至比跪(さちひこ)とは渚姫(卑弥呼)の弟のヒコサチ(彦幸)ではないでしょうか。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
巨椋池
百襲姫の誕生は孝霊39年(168年)
AD171年倭を出発した百襲姫は大和川を下り、大阪湾岸に出て、明石海峡を越えて淡路島の西海岸を南下し、オノコロ島神社の地に着く。この地にいた和知都美命の元に暫らく滞在後、ここから、海に出て東かがわ市の引田安堵浦に着岸したのである。このとき、百襲姫は8歳になっていた。
144年 イザナギ、イザナミ生まれる
167年 スサノオ生まれる
187年 饒速日生まれる。やまととももそ姫生まれる。
198年 卑弥呼生まれる。 手研耳命 神八井耳命 生まれる
200年 彦幸 名草に生まれる 賢かったので彦幸、 名草は渚
214年 14歳、卑弥呼16歳、饒速日(27歳)、スサノオ47歳
エウカシ、オトカシ(五瀬彦、稲飯、三毛入(長脛彦)対 饒速日
長脛彦の妹;ミカシキ姫を貰う。
215年 大彦(大国主) 北陸に行く 建御名方神 生まれる0歳 母高志沼河姫
タケヌナカワ=大彦の子=タケミナカタ=タカヒコネ(大国主の子)
217年 ウマシマジが生まれる。天の岩戸
(もっとも本人は嫉妬したのではなく、研究してたのだと、、)
218年 18歳 鳴門に行く。ウズヒコになる。
渚姫一行は、難波の南方 御殿山に御殿 饒速日に嫁ぐ。ミホツ姫(ウツシコオの娘)生まれる。
220年 20歳、内里に住む・ウツシコオになる。大彦23歳 ~天孫降臨
姉のウツシコメ22歳、
三島の溝杭:水運をイチキ姫、宇迦(ウカ)と共に取り仕切っる。
221年 禁野に宮殿、ミホツ姫大彦に嫁ぐ16歳
225年 25歳、妻:高屋のアハラ姫:高野山、アハラはアヒラ
卑弥呼27歳 奈良県五條市の東端が阿田 朱が出る;弘法大師
ミホツ姫17歳。 イカガシコオ生まれる 五十鈴姫生まれる。
235年 35歳 孝元天皇の宰相(まだ下っ端) それ以外にも后を 后の宿祢と呼ばれる
瀬戸内海を往復 九州にも拠点 一大卒
235年 大彦 北陸遠征 建御名方神20歳 母高志沼河姫
盛んに妃を送り込む。キサキの宿祢 この頃スサノオ死去
一大卒 魏に行くことを決意~くしふるたけ
236年 36歳 兄磯城との戦い。大彦(綏靖)38歳 ウマシマジ(少彦名)19歳、
磯城の縣主になる。タケハニヤス(神八井耳命)京都の愛宕郡に領地を貰う。
237年 イニエ生まれる。天孫降臨 名草から、内里に卑弥呼38歳、
238年 大彦 ミホツ姫をもらう。事代主生まれる(タカヒコネ???)
239年 中臣氏を説得して魏に行くことを勧める。
・都市牛利、239年(景初3年)、難升米の副使。
・伊聲耆(いせり?:大夫)、243年(正始4年)正使
・掖邪狗(ややこ?)、243年副使
239年 40歳 饒速日(65歳) 崩御 卑弥呼42歳 大彦42歳
金印もらう
240年 魏の使者が来る。ウマシマデ29歳
241年 大彦開化天皇として即位 242年 タケハニヤスの乱
42歳 クガミミ、タケハニヤスの乱 大彦48歳 大彦を暗殺しようと思う。
応神天皇元年
243年 大彦暗殺計画
244年 イニエ生まれる イカガシコオ20歳 オホニイカワ生まれる。
245年 大彦暗殺計画2 大彦衰弱
246年 46歳 国譲り~孫のミマキイリヒコを崇神天皇 大彦33歳:衰弱 事代主4歳
ウマシマジ31歳、タケヌナカワはタケミナカタ イニエ13歳
247年(正始8年)、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に訴えるために魏に赴く。
・載斯烏越(ウツシコオ)、長脛彦の最後 卑弥呼死去49歳
247年 百済 王子 腆支王(てんしおう) イニエ14歳 やまととももそ姫70歳
人質として倭国に赴いた(『日本書紀』、『三国史記』共に対応する記事あり)。
252年 七枝刀
日本書紀神功皇后摂政52年条(252年)に最も近い説である。発見者である菅政友も言及している説であった。百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたものとする。晋(西晋)の皇帝は世祖武帝司馬炎である。
256年 応神天皇15年に百済王から良馬二匹と共に貢上、大和の軽坂上厩で飼養。
『日本書紀』では百済王の名を記していないが阿花王(阿莘王)の時代と推定される。
菟道稚郎子の師となり、自分よりすぐれた学者として王仁を推薦し、王仁を百済から渡来させたとされるが、以上の史実性は確かめえない。
260年 大彦死去 国譲り。イニエ即位16歳
葛城襲津彦の新羅征討 62歳
神功皇后62年(262年または382年)、葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。
『百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼす。加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。
葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。
応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、3年、音沙汰もなくなった。
応神16年8月、天皇は平群木菟宿禰・的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
266年 女王国 中国の歴史書から姿を消す。
巨椋池
昭和7年、国内初の国営干拓事業で消滅
宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する宇治から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。これがこの時代の巨椋池である。
平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。
巨椋池の東側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそれらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来する。
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