第169話
四世紀後半、出雲の斐伊川上流に突如として、出雲地方の特徴である四隅突出型墳丘墓とは異なった形態すなわち前方後円墳と方墳が出現します。
方墳は神原神社古墳です。素環頭太刀、木装太刀、剣、槍、鉄鏃、鍬、鎌、斧などの鉄製品や赤顔塗料の付着した土師器が見つかっています。驚くべき発見になったのが、三角縁神獣鏡で、これには中国の王朝の1つである魏の「景初三年」(239年)という銘が鋳出されていました。
場所は、雲南市加茂町神原で「出雲風土記に神原社とある延喜式内社で天下造らしし大神の御宝を積み置き給う処であり神宝(かんだから)郷と云うと、即ち大国主命を祀る所以である。」という言い伝えがあります。ここでいう大国主はウマシマジ(宇麻志摩遅命)だと思います。この墓がウマシマジの墓ではないでしょうか。景初三年の三角縁神獣鏡を副葬する人物は大王級の人物です。
そして同じころ同じ雲南市(三刀屋町大字給下字松本地内)に松本第1号古墳が築かれています。斐伊川中流域の小平野に臨む全長約50メートルの前方後方墳で、やはりこちらも大王クラスの墓です。埴輪、葺石などの外部施設は認められませんでしたが、墳丘の斜面や溝の中から多数の土師器辺が発見された他、後方部に設けられた2つの粘土槨からは獣帯鏡、ガラス小玉、刀子、針などの副葬品も見つかりました。この古墳は4世紀後半ごろの築造と考えられ、針があることから女性の墓と思われます。
私はこの古墳は三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)のものだと思います。長脛彦の妹で、ウマシマジの母です。ウマシマジが大和(邪馬台国)から出雲に落ちていくときに一緒に連れて来たのだと思います。三炊屋媛は饒速日の后で、私の考えでは孝元天皇の后です。
長脛彦=三毛入野はもともと周防(山口県)の出身です。この辺りの古墳は前期では方墳・円墳が中心です。三炊屋媛は三毛入野の妹ですから周防の出身でしょう。周防でも古代の地名でいう熊毛郡に三毛入野を祭る神社が集中しています。例えば周防國熊毛郡の熊毛神社の祭神は御毛入沼命(三毛入野)と玉依姫命です。玉依姫命は神武天皇の母ですが、私はこの玉依姫命とはウマシマジの母の三炊屋媛ではないかと考えています。
関連項目:邪馬台国全史2~宇摩志麻遅命
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※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。
本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
『古事記』では玉依毘売、玉依毘売命、『日本書紀』では玉依姫と表記される。
神武天皇(初代天皇)の母であり、天皇の祖母である豊玉毘売の妹。
名義は「神霊が依り憑く巫女」と考えられる。大物主神の妻である活玉依毘売や、『山城国風土記』逸文に見える玉依日売と同じく、この名前を持つ者は神と通婚する巫女的神性を持つとされる。なお皇統が穀霊で続き、玉依毘売の御子も「五瀬命」(厳稲の命)、「稲氷命」(稲霊の命)、「御毛沼命」(御食主の命)、「若御毛沼命」(若御食主の命)であることから、特に穀霊を依り憑かせる巫女であったと考えられる[1]。
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<卑弥呼>
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<饒速日>
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<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
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とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中