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神武西征~健磐龍命

更新日:7月12日

第369話


健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、神八井耳命の5子とされており、神八井耳命は神武天皇の第3皇子で綏靖天皇(第2代天皇)の兄であり、天皇の位を弟に譲って神祇を奉典したといわれています。神八井耳命は三毛入野でウツシコオです。


健磐龍命は、阿蘇都彦命(あそつひこのみこと)と同一人物とする説があり、現在は阿蘇神社の祭神として知られ、阿蘇大明神という神号を持ち、さらにのちには阿蘇山の火山神としても崇められています。


健磐龍命は阿蘇一帯を統治し、阿蘇市の阿蘇神社の楼門前には神陵があり、2個の小丘の北が健磐龍命、南が阿蘇都比咩神の陵であるといいます。


佐藤洋太著「神武天皇と卑弥呼の時代」p72によりますと健磐龍命は山城国宇治*1から瀬戸内海*2を渡り、宮崎の港、延岡から五ヶ瀬川*3をさかのぼり高千穂から草部に入ったと言われているそうです。


草部は、日下部氏*4と関係のある地です。都農神社(つのじんじゃ)は、宮崎県児湯郡都農町にある神社。式内社、日向国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。

明治以前は「宮崎社」「宮崎宮」とも称されていた。地元では「一の宮神社」とも呼ばれる。この神社では仁徳天皇の皇子の大日下王(おおくさかのみこ)、若日下王(わかくさのみこ)が祭られており、神職は日下部氏です。都農はツノ、タケツノミ(賀茂建角身命=八咫烏、ツヌガアラシヒト(都怒我阿羅斯等=アメノヒボコ)に通じます。建角身命もウツシコオ 八咫烏もウツシコオ  アメノヒボコはウツシコオ~投馬国


古代の部民である日下部氏は、雄略天皇の皇后であり仁徳天皇の皇女でもある草香幡梭姫が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因むとする説があります。そして、この部民は各地に配置されて屯田兵のような軍事集団の性格を持つものでもあったとされています。彦湯支命(比古由支命:ヒコユキ)=ウツシコオの後裔。物部氏の一族。参照:ヒコユキからウツシコオへ


*1:山城国宇治は、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の本拠地です

*2:瀬戸内海は、うず彦(椎根津彦) ~浦島太郎 塩土老翁~浦島太郎2の庭みたいなものです。

*3:五ヶ瀬川は神武天皇の兄の五瀬命、五十猛、彦五瀬命の名前の由来のとなった思われます。五十猛と五瀬命

*4:日下は、神武天皇が長脛彦と戦ったところです。長脛彦は孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄:五瀬命は流れ矢にあたって負傷したとされています。日下は東大阪市です。〒 579-8003


これにより健磐龍命はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王だと思われます。

ということは、神武東征の全く逆のことを健磐龍命(たけいわたつのみこと)は行っているわけです。


健磐龍命は日向国の宮崎に上陸したと言いますが、宮崎にある生目古墳群は四世紀前半以降、西都原古墳群は、それよりやや後のものです。宮崎県には他の地域(丹後、吉備、出雲等)に比べても考古学的には注目(邪馬台国として)には値しないそうです。奈良県の前方後円墳は遅くても三世紀代です。このことからも、古墳の流れはヤマトから九州であることが分かります。佐藤洋太著「神武天皇と卑弥呼の時代」p74


「たけいわたつのみこと」という文字の配列から「わたつみ」を連想してしまいました。龍は海神(わたつみ)です。 海人族~ワタツミ

ワタツミ一族は安曇族、海部氏です。祖の安曇磯良はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 05
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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