第385話~彦主人王はウツシコオ=スサノオ
前号で、馬子以前の大王(天皇)はすべて架空の人物です。書いてしまいましたが、馬子以前の大王で一番実在したと考えられる大王は、継体天皇です。
継体天皇は、男大迹王(をほどのおおきみ)で507年に57歳で即位したとされていますから邪馬台国の時代とは少し離れています。さすがに継体天皇はウツシコオとすぐに言うのは、憚れます。
しかし、継体天皇の父親は、彦主人王(ひこ・うしのおう)です。上宮記:逸文では「汙斯王(うしのおおきみ)」と表記されます。
彦と牛(角=つの)とウツシコオのキーワードが二つも入っています。
第363話:彦はすべて、ウツシコオ
第374話:牛鹿臣はウツシコオ!
私は、これまでウツシコオ(内色許男命)のことを、アメノヒボコ~ツヌガアラシヒト、タケツノミ、牛頭天王としてきました。参照:牛頭天王(スサノオ)はアメノヒボコ? アメノヒボコはウツシコオ 事代主=賀茂建角身命(たけつのみ)=八咫烏です。八咫烏もウツシコオ
この三者に共通するものは何かといえば、ツノ(角)です。そして牛鹿臣の名前、牛としかに共通するのは角(ツノ)です。おそらくウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)は戦の時、角(ツノ)のついた兜をかぶっていたのでしょう。
彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)の人物で
す。彦主人王が拠点とした三尾にあったとされ、近江国高島郡三尾郷(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)と見られています。現在も水尾神社や「三尾里」の地名が残ることから、「三尾」とは高島市の鴨川下流域一帯を指す地名とされ、現在でも、継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っています。
水尾神社の祭神は、磐衝別命(いわつくわけのみこと)です。第11代垂仁天皇の第十皇子とされています。第368話:垂仁天皇はウツシコオ:内色許男です。
磐衝別命とよく似た名前に、健磐龍命(たけいわたつのみこと)がいます。第369話:神武西征~健磐龍命 で書いたように九州に乗り込んだウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)のことです。
磐衝別命=健磐龍命とすれば継体天皇(男大迹王)の父親は、ウツシコオ(内色許男命)となります。
継体天皇は、武烈天皇の死後、日嗣がないということで、畿内から遠く離れた越前三国から大伴金村によって迎えられます。しかし大和に入るのに20年もかかっています。
継体天皇は、58歳で河内国樟葉宮(くすはのみや:大阪府枚方市)において即位し、511年に筒城宮(つつきのみや:京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや:京都府長岡京市)に住んだと言われています。これらの場所こそが私のいう御牧国=邪馬台国でウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)の本拠地です。
継体天皇の前の武烈天皇は都を奈良県桜井市の泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に置いたとされていますが、武烈天皇は歴代天皇の中でも実在性が最も低い天皇です。継体天皇が即位したころに奈良県に都(首都)などなかったのです。奈良県に都を移したのは継体天皇が最初だとすると、古代史研究者が悩んでいる何故、大和に入るのに20年もかかったのかという謎が解けます。
次回に続く→継体天皇はスサノオ
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
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