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継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社

更新日:10月25日

第479話 #北村某の家記 #楯原神社 #継体天皇 #建大々杼命

      #邪馬台国 #台与


大阪の難読地名でよく登場する喜連(平野区喜連町)は「きれ」と読みます。

この喜連に楯原神社があります。祭神は武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、赤留姫命です。


この神社には、北村某の家記が伝わっています。

この家記によりますと、建御雷男命*には孫がいて建大々杼命(たけ・おおど・の、みこと)といいます。「おおど」とは継体天皇のことです。*建御雷男命は台与です。第441話:タケミカヅチは台与!!


◎継体天皇の名はヲホドノオウ。漢字では、男大迹王や乎富等王など←継体天皇 - Wikipedia


北村某の家記は、大阪府全志に収録されており、旧喜連村の北村某なる人物が所蔵していた文書です。その内容は、楯原神社の由緒とその創建に関わった息長氏の事績に加えて、喜連村に点在する古塚や字にまつわる伝承がふんだんに盛り込まれています。


建御雷男命が天照大神の命を奉じて豊葦原中国*に降臨し、大国主命に天つ神の命を伝えたところ、大国主命は国土国宝のすべてを献上する旨を述べた。さらに、彼が持っていた「天の弘鉾」を「国平の鉾」と改称して建御雷男命に授け、「この鉾を携えて天下を巡行し、従順な神を従わせ、従わない神を斬りなさい」と言った。*葦原中国は枚方(樟葉)です。第30話:豊葦原中国:とよあしはらのなかつくに


建御雷男命は天孫降臨に供奉し、大国主命の教えに従って天下を平定した末に、武部三十六柱を率いてこの地に現れた。建御雷男命は孫の建大々杼命に代を譲り、「私の十握剣を私の霊代として、国平の鉾は大国主命の霊代として鎮祭しなさい」と命じて亡くなった。


建大々杼命はこの地を治め、多くの年月を経て亡くなり、「大塚の墓」に葬られた。子の建彦命は父の名前を取って国名を「大々杼(おおど)国」、郷名を「大々杼(おおど)郷」*と名付けた。*この大々杼郷が現在の大阪市平野区喜連町です。


その子孫・大々杼彦仁が37歳のときに神武天皇が倭国に入ろうとしたが、長髄彦*に行く手を阻まれて浪速に戻り、木の国を南に進んだところ、大熊が現れて一行を悩ませた。このとき彦仁は建御雷男命の託宣を受け、大鵄の導きによって天皇の元に駆けつけて十握の剣を献上した。天皇は十握剣で大熊を切り、皇軍は倭国に入ることができたので、天皇はその功績を賞して彦仁に「大々杼」の姓と「剣臣」の号を賜り、「大々杼国造」に任命した。

*神武天皇、長髄彦はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。


綏靖天皇3年、神八井耳命が大々杼彦仁の家に御幸し、建御雷男命を拝した。

第202話:茨田堤では、彦八井耳命が茨田堤(まんだのつつみ)を作ったとしています。

彦八井耳命は神八井耳命でしょう。さらに第412話:ヤマタノオロチは淀川~茨田堤2 、第469話:石の宝殿2~大阪府寝屋川市では、茨田堤を作ったのは台与であるとしています。


神八井耳命=彦八井耳命=建御雷男命=台与=建大々杼命=継体天皇という図式が成り立つのではないでしょうか。


魏志倭人伝では、卑弥呼の後継者は台与と書かれています。しかし古事記、日本書紀には台与は全く登場していません。と思われていました。しかしちゃんと台与のことが記載されていたのです。台与は女性ですが、記紀では台与は男性として記載されていたのです。


台与は様々な改革を行い倭国(邪馬台国)を中国(大陸)や半島(朝鮮)と対等に渡り合える国家にしました。しかし、のちの大和朝廷に万世一系の思想が芽生え台与が女性であることを徹底的に隠したのです。


継体天皇がなぜ大和(奈良県)にすぐに入らなかったのだろうとすべての研究者が考えています。大和は高槻市です。台与は奈良県に都を置くつもりはなかったのです。しかし、大規模な疫病(コロナ?)が大流行し、生き残った民も邪馬台国から離れていってしまいました。やむなく台与は奈良県に都を移動させたのです。


参照:第12話:記紀に邪馬台国が記録されなかった理由

  :第17話:邪馬台国で疫病発生  

  :第18話:本当の奈良


第422話では、すでに継体天皇はトヨ(台与)としています。崇神天皇も台与です。


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>







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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 23
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 23
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https://www.city.osaka.lg.jp/hirano/cmsfiles/contents/0000295/295446/kire-kousou.pdf


喜連環濠地区は、中世に造られた「環濠」内の旧集落を中心にした地区をさしています。ここ には今なお 100 年以上前に建てられた家や塀・門など歴史のある建築物が多数残っています(※ 1)。この地区の成り立ち、発展に深く関わっている1社 6 寺は、今も地域の文化的支柱です(※ 2)。地区の出入口に鎮座していた地蔵が今も引き継がれています(※3)。ここでは、杉山講、 七日盆、地蔵盆、しめ縄づくりなどの伝統行事が、地区住民など関係者によって営まれています。 また、地区の歴史を研究している「喜連村史の会」が活発に調査活動を行っており、まちの歴史 が新たに紐解かれつつあります。 大阪市内の中でも特に古さを誇るま

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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息長田別王

名前

息長田別王【古事記】(おきながたわけのみこ)

息長田別命【先代旧事本紀】(おきながたわけのみこと)

キーワード

阿波君あわのきみ等祖【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】

性別

男性

父:

倭建命やまとたけるのみこと【古事記 中巻 景行天皇段, 先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】

母:

弟橘媛おとたちばなひめ【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】

先祖


 これまでの古代史では神功皇后の生家を近江息長氏(父が息長宿禰王)とし、その遠祖を「山代之筒木真若王--日子坐王--開化帝」の系譜にだけ求めてきた訳ですが、上記の家伝によれば息長家そのものが「仲哀帝の異腹の兄弟(タワケ)」と「河内の豪族の娘(クロヒメ)」との間に産まれた杭俣長日子王(クマタナガヒコ、『上宮記』では河派仲彦王)から始まった事になり、息長氏が後世にわたって半ば王家と同等の扱いを受けた(西暦684年『八色の姓』制定時、最高位・真人の筆頭が息長氏)背景が、より鮮明になります。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 22
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