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神武天皇の正体~若御毛沼命

更新日:5月23日

第146話~三毛入野は若御毛沼命(神武天皇)


三毛入野命(みけいりののみこと)は、日本書紀では「三毛入野命」・「稚三毛野命」、古事記ではでは「御毛沼命(みけぬのみこと)と表記され、神武天皇(初代天皇)の兄であるとされています。


神武天皇は、神日本磐余彦天皇(かん・やまと・いわれびこの・すめらみこと) で、古事記では、若御毛沼命(わかみけぬのみこと) 、豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) です。


私が長脛彦であるとした三毛入野は「稚三毛野命」で「稚」は「若」の意味です。とすると「わけみけぬ」となります。「稚三毛野命」は「若御毛沼命」と同じです。ということは

三毛入野は神武天皇(神日本磐余彦天皇)になります。


三毛入野は神武(創作された神武)の兄の一人です。いつも参考にさせてもらっている上垣内先生によると三毛入野は周防(山口県)の周防国熊毛郡の地方豪族です。三毛入野もやはり鉱山の経営者だと思われます。


このプログの75話ではその頃、大阪府南部に侵入してきた五瀬彦と三毛入野は、紀ノ國(木の国)にいたと思われるスサノオ五十猛彦(ニギハヤヒ)と衝突し、追い払われたのではないでしょうかと書きました。この時、五瀬命は戦いで死に、三毛入野は、饒速日に降伏したのです。三毛入野は、饒速日の部下となり長脛彦になったというのが私の推論です。蝦夷には、自分たちと違うもの、よそから来たものという意味もあります。三毛入野は、物部一族からすればよそ者(蝦夷)です。


日本書紀の神武即位前紀では、三毛入野は、兄弟とともに熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとされています。宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとされ、三毛入野命は高千穂神社の祭神であり、その妻子神とあわせて「十社大明神」と称されています。


出雲の国譲り神話に登場する建甕槌命は、古事記では大物主神の後裔とされ、三輪氏の始祖・意富多々泥古命(オオタタネコ)の父とされています。オオタタネコの別名は豊御毛沼命(とよみけぬ)で、この豊御毛沼命こそ神武天皇の素材であったとされるのが、「邪馬台国と神武天皇」の著者の牧尾一彦氏です。


建甕槌命(建御雷神)は中臣氏(後の藤原氏)の氏神です。藤原氏は、三毛入野命=豊御毛沼命=神武天皇が、長脛彦であったことを隠したいために、神武東征の話を創作したのではないでしょうか。私のプログ(小説)では、建甕槌命はウツシコオの手下です。邪馬台国全史2~宇摩志麻遅命


崇神天皇の時代に発生した疫病(コロナ?)で多くの人民が死んでしまいます。崇神朝は、大国主(大彦)や事代主(アジスキタカヒコネ:阿遅須伎高孫根命)から、無理やり国を奪い取って成立したと思われます。邪馬台国全史~国譲り


饒速日亡き後、当時最大の軍を率いていた長脛彦(狗奴国)をそのことに反発しますが、ウツシコオの采配で、長脛彦の甥のウマシマジに、長脛彦とを討たせたというのがこのプログの本筋です。崇神朝に祟りをなすのは長脛彦しか考えられません。長脛彦を大物主として三輪(大神神社)に封じ込めたのです。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>



高千穂神社

社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。


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2 comentários

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
14 de nov. de 2023
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向神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるというが、そもそもは現在地から北に500メートルの所にある五塚原古墳(いつかはらこふん)の上に祀られていたようである。養老2年(718年)になって元稲荷古墳の南側にある現在地に遷座した。

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