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蘇我馬子はウマシマジ??(2)

更新日:7月19日

第383話


前回で書きました宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)をあっさりウマシマジのことと思われます、としてしまいましたが、日本書紀では次のように書かれています。


一書曰、古国稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩。于時、国中生物。狀如葦牙之抽出也。因此有化生之神。號可美葦牙彦舅尊。次国常立尊。次国狹槌尊。葉木国、此云播舉矩爾。可美、此云于麻時。


昔、国も地も出来上がっていないときは、例えるならば水に浮かぶ油のように漂っていました。その時、その国の中から、葦(アシ)の芽が生えるように、一つの物が生まれました。そうして生まれた神を可美葦牙彦舅尊(ウマシ・アシカビ・ヒコヂ)と言いました。

次に生まれたのが国常立尊(クニノトコタチノミコト)。

次が国狹槌尊(クニノサツチノミコト)。葉木国(ハコクニ)を「播舉矩爾(ハコクニ)」といい、可美(ウマシ)を「于麻時(ウマジ)」という


一書曰、天地混成之時、始有神人焉。號可美葦牙彦舅尊。次国底立尊。彦舅、此云比古尼。

天地が混沌としていたとき、初めに「神人」が居ました。名前は可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)です。次に国底立尊(クニノソコタチ)です。彦舅(ヒコヂ)を比古尼(ヒコジ)と言います。


ウマシアシカビが「葦の生える豊かさ」、クニノソコタチが国土そのものと考えられます。

また「神人」が天地が分かれたときに生まれていて、その神がウマシアシカビだというならば、ウマシアシカビが世界の中心になります。「葦」がいかに日本人にとって「特別」な植物だったか分かります。


私の妄想を付け加えるなら、豊葦原中国、枚方市楠葉の鵜殿蘆原です。参照:第30話:豊葦原中国:とよあしはらのなかつくに

葉木国(ハコクニ)の葉は、樟葉の葉 、播舉矩爾(ハコクニ)の播は播州で宇麻志神社(うましじんじゃ)のある兵庫県相生市小河は揖保郡で歴史的に枚方と関係の深い場所です。揖保、三輪(奈良県)、交野(枚方)素麺でつながっています。(*注:下記


ウマシマジ(宇摩志麻遅命)を物部氏の祖とする文献は複数存在します。例えば、古事記や日本書紀では、ウマシマジが物部氏、穂積氏、采女氏の祖とされています。先代旧事本紀でも同様の記述があり、彦湯支命の父であると伝えられています。彦湯支命(ヒコユキ)はウツシコオの幼名です。参照:ヒコユキからウツシコオへ


ウマシマジがヒコユキの父親という設定なら、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)が日本書紀の最初に出てくる理由が分かります。

宇摩志阿斯訶備比古遅神は宇摩志麻遅命と言っても良いでしょう。比古は彦で、遅は爺やのことです。参照:第363話:彦はすべて、ウツシコオ


古事記では、宇摩志阿斯訶備比古遅神は、別天神(ことあまつかみ)五柱の神の一神で、弥生時代の倭国(北部九州)の中心国である奴国(なこく、福岡市)の紀元前1世紀の首長とするサイトがありました。宇麻志神社(うましじんじゃ、相生市) : 古代史探訪 (exblog.jp)

私は、奴国の首長は兕馬觚=シマコであることは既に述べています。浦島子はウツシコオです。


蘇我氏は、ウマシマジやヒコユキの末裔ですので宇摩志阿斯訶備比古遅神を祭る神社に馬子が共に祭られていても不思議ではありません。


日本書紀からその内容を民衆に認知させるために古事記が作られ、その内容をより広く知らしめるために、各地に神社をつくり古事記・日本書紀に基づいた内容を神社の伝承として伝えさせるというのが、日本国家としての方策だったのです。


現在でも各地の神社の伝承を信じて、様々な書籍・ブログが多数ありますが神社の伝承をそのまま信じている間は、当時の日本国家の思うつぼにはまっているのです。私も最近まではそうでした。古事記・日本書紀・各神社の伝承の嘘をつきとめていくことで古代の日本の姿が見えてきます。


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素麺(素麺)


揖保乃糸で有名な揖保郡のすぐそばです。播磨国風土記によれば、河内国茨田郡枚方の里の漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやってきて、初めてこの村に住みました。そこで枚方の里といいます。と記されています。


そうめん(素麺)と言えば、三輪素麺、そして揖保乃糸ですが、実は交野が日本で最初に素麺を作っていたと思われます。交野では今では数軒になってしまっていますが、30年くらい前では素麺づくりが盛んに行われていました。交野と枚方をあわせた丘陵地は交野ケ原と呼ばれ、その交野ケ原は古代からの歴史があります。交野の方が三輪よりも歴史が古いと思われ、素麺は交野から三輪へ伝わったのです。

*交野ケ原は天の原でが高天原です。この地方は地味肥え作物豊かな野であったので「甘野」といわれ、後に天野(あまの)となりました。古事記・日本書紀に出てくるアマ・アメはこの交野市私市(天野)が起源です。参照:推古天皇は架空の天皇~交野市私市


そして揖保乃糸の揖保郡(いぼぐん)は、兵庫県(播磨国)で、和銅7年(713)に編纂された播磨国風土記に「枚方」の地名が出てきます。「枚方の里 土は中の上なり。枚方と名づる所以は、河内の国、茨田(マンダ)の郡の枚方の里の漢人、来たりて、初めてこの村に居りき。」このことから揖保の素麺も枚方・交野から伝わったことが想像できます。




※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 19
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伊勢津彦、兄多毛比命や弟武彦命、武蔵国造 – 古代史俯瞰 by tokyoblog (tokyox.sakura.ne.jp)

上総国海上郡の海上氏(祖 天穂日命)との関係も考えられるが、不明。神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代生田神社祭主となったという。麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう。なぜ戦った相手の子に奉祀させたかは不明。本当であるとすると、壬申の乱の後の石上麻呂の様に、敗者側関係者が栄達?を遂げたこととなる。子だけ、神功皇后、応神天皇側についたのかも知れない。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 18
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