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豊受気媛神は三炊屋媛

更新日:2月10日

第212話~お伊勢さんも長脛彦


戸矢学氏は、お伊勢さん(伊勢神宮)も長脛彦を祭っているとされておられます。


戸矢学著「ニギハヤヒと先代旧事本紀」p172より引用

そもそも崇神朝に八咫鏡と天叢雲剣が宮外に出され、流浪の末に伊勢にたどり着いたことを知れば三輪の神と伊勢の神が同じであるのは当然であろう。日本の神は恐ろしくて、優しくて、、、、これが日本の神信仰の本質だ。そして大物主もそういう神になった。祟りなす神として崇神天皇から恐れられつつも、皇女によって懇篤に祀られて、ついには国家鎮護の神となる。大神神社と伊勢神宮は、そういう神社として成立した。(引用ここまで)


第62話 伊勢の神と三輪の神 で「伊勢と三輪の神、一体分身のおん事」と書きました。

とすると伊勢神社の下宮で祭られている豊受気媛神(豊受大神)は、三炊屋媛ではないでしょうか。三炊屋媛は長脛彦の妹です。別名は櫛玉姫命(櫛玉比女命)です。

三炊屋媛の「炊」から食事当番を連想してしまいます。豊受気媛の「ウケ」は食物のことで、この姫も食物・穀物を司る女神です。


福知山市大江町には元伊勢豊受大神社があります。元伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後でした。丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説があります。


三炊屋媛が豊受気媛だとすると、三炊屋媛は饒速日に嫁ぐ前に但馬に嫁入りしていたのではないでしょうか。三炊屋媛は饒速日と結婚してウマシマジを生みます。この結婚は、どうみても政略結婚です。秀吉の妹の朝日姫を思い出してしまいます。

秀吉が長脛彦で家康が饒速日です。


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このプログでは、長脛彦も大和朝廷(邪馬台国)の一員です。五條市あたりで、饒速日と九州から来た五瀬命(長脛彦)は衝突しします。高千穂  ~三毛入野と五瀬命   

この戦いは丹生都比売が持つ鉱山の権利をめぐるもので、饒速日と五瀬命が競って丹敷戸畔攻めたとのです。この時にうまく立ち回ったのがウズヒコ(鴨王)ことウツシコオです。瀬戸内海を仕切っていたウズヒコは饒速日とも五瀬命とも面識があり同盟を結ばせ共同して丹敷戸畔を降伏させたのです。この時、長脛彦は自分の妹の三炊屋姫(=玉櫛姫)を差し出して和睦し、大和朝廷の一員になったのです。

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南北朝時代に途絶するまで、未婚の皇女が宮中から派遣され、神宮に奉仕する斎宮の制度が設けられていました。この儀式は伊勢の神が男性であった証だとする研究者もいます。


5世紀代にはヤマト王権と伊勢地域の関係は希薄で、6世紀末になって初めて伊勢地域南部をも含めた伊地域全体が大和王権による統一管理体制下に入り、伊勢における王権の祭祀はそれと同時期の6世紀末に開始されたとする見解があります。伊勢の神が長脛彦から天照大御神に代わったのはその頃だと思います。


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。  

※これまでの記事はこちらです。




朝日姫~徳川家康の正室、豊臣秀吉の妹


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