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遣隋使とウツシコオ

更新日:7月12日

第350話


589年に隋が中国を統一し南北朝時代が終了すると、百済、新羅が相次いで隋に遣使し始めました。こうした国際情勢を受け、600年に倭国(日本)からも隋への遣使が行われました。これは倭国と中華王朝の通交としてはほぼ120年ぶりのものです。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭され、また服制の不備などもあり失敗に終わったようです。この時の遣使は隋書のみに記録されており日本書紀には残されていません。


この失敗は倭国側に大きなカルチャーショックを与えたと見られ、遣隋使の帰国直後から様々な改革が行われています。


なぜ遣隋使が失敗したかというと、ウツシコオ(内色許男命)が崩御してしまい中国と外交を行うことができる人材がいなかったためではないでしょうか。ウツシコオは、語学力、交渉力、様々な知識を持っていました。


景初3年(239年)に倭国は難升米=ウツシコオ(内色許男命)は魏に赴き、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出ています。劉夏はこれを許し、わざわざ役人と兵士をつけて彼らを都まで送っています。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授しました。皇帝は難升米の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将に為して銀印青綬を授けました。皇帝は献上物の代償として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を与えました。難升米はウツシコオ(内色許男命)です。

さらに正始6年(245年)には、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米=ウツシコオ(内色許男命)に黄幢(黄色い旗さし)を仮授しました。


つまり邪馬台国の時代の方が後の遣隋使よりもうまくやっていたのです。


隋書や北史はこの遣隋使を送った王を妻のいる男性としています。旧唐書・東夷 倭國 でも倭国の王の姓は阿毎氏(アメ)であるとしています。新唐書・列傳に「曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり、王(当時の天皇)多利思北孤としています。

は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、号は阿輩雞彌(オオキミ=大王)

アメのタリシヒコとはウツシコオのことです。アメは大阪府交野市のことです。タリシ彦は大王足る人物ということです。参照:推古天皇は架空の天皇~交野市私市


最初の遣隋使の頃は、まだ日本国=天皇という称号もなかったため、当時の官僚たちは、ウツシコオが景初3年(239年)に倭国は難升米が用いた曰目多利思比孤直(あめのたりしひこ)を阿輩雞彌(おおきみ:大王)の意味としてそのまま用いたのです。ちなみに倭国とは我が国(うちの国)という意味です。


当時は、この程度の国際感覚・外交力ですので、隋にばかにされるのも無理はありません。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>



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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
16 jun
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建布都神 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp)


御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載しています。

布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言う。この表記の内、佐士布都神の「さじ(佐士)」は「さひ(佐比=刀の古語)」の誤記と見られている[1]。名称にある「ふつ」とは、「断ち切る様」をいう[2]

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
16 jun
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