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邪馬台国は北摂!!

第309話


私が邪馬台国であるとする北摂には3つも重要な遺跡があります。

茨木市の東奈良遺跡、高槻市の安満遺跡、そして奈良県磯城郡にある鍵・唐古遺跡遺跡です。


  1. 東奈良遺跡(ひがしならいせき)

  • 大阪府茨木市東奈良一丁目・二丁目

  • 複合遺跡(弥生時代の環濠集落、古墳時代集落、中世の水田)

  • 弥生時代の大規模な環濠集落で、外部には広大な墓域もあります。

  • 銅鐸の鋳型が35点も出土しており、他にも銅戈や勾玉などの鋳型が発掘されています。

  • この集落から生産された銅鐸は近畿一円から四国でも発見されており、政治的に重要な位置を占めていました。

  • 高さ14.2センチメートルの小さな銅鐸も見つかっており、銅鐸の起源についての謎を解く可能性があります。

  • 弥生・古墳時代の溝や中世の水田跡も見つかっています

  1. 安満遺跡(あまいせき)

  1. 鍵・唐古遺跡(かぎ・からこいせき)


これだけ重要な遺跡が3つもある地域は、河内湖の囲むようにして存在しています。

第284話:邪馬台国は巨椋池で邪馬台国は巨椋池池という記事をかきました。同じように邪馬台国は河内湖と言っても良いでしょう。



         邪馬台国の図


※ 上図では鍵・唐古遺跡の位置がずれています。実際はもっと右の方です。

そして奈良盆地には、河内湖と繋がる大きな湖がありました。鍵・唐古遺跡はその湖に隣接していました。第26話:奈良に湖 もう一つの古代高速道路か



なぜこれほどまでに、重要な遺跡があるのに学者たちは、この地域を邪馬台国としないのでしょうか。私にはそっちの方が謎です。その謎について考えて見ました。

 

1.東奈良遺跡が発見されたのは、1973年(昭和48年)です。大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見されたのです。

2.安満遺跡公園が国の史跡に指定されたのは1993年(平成5年)、11月に(2011年(平成23年)2月、一部追加指定)

遺跡は、1928年(昭和3年)に京都大学大学院農学研究科附属農場の建設工事の際に発見されていたのですが、1966年(昭和41年)頃から住宅開発が始まったことをきっかけに農場北側の発掘調査が行われ、遺構が広範囲に分布していることから比較的大きい規模の集落がこの地に拓けていたことが判かりました。

弥生時代の「クニ」の変遷を明らかにすることが可能な大規模集落であるため、2011年(平成23年)2月には旧農場内の一部が追加指定されまし。

3.鍵・唐古遺跡国が国の史跡の指定されたのは、1999年(平成11年)です。この時に、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。


つまりこれらの遺跡が発見され、研究され始めたのはつい最近のことなのです。


1960年代には、畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では豊富であると考えられていたのです。これらの北摂にある3つの遺跡が発見される前に邪馬台国=九州説が東大を中心に確立してしまい権威を重んじる学者たちによってその説が固定してしまったようです。さらに研究者たちは、河内湖、奈良盆地湖についても無知なようです。


河内湖、奈良盆地湖を干拓したのは三島(茨木市)・御牧(高槻)から疫病によって移動したミマキイリヒコ(崇神天皇)です。


1.三島

2.御牧国



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
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秀丸 遠嶽
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