第141話~これは小説です。
BC248年11月早朝、ウマシマジは、伴の者も連れずに一人で倉治の屋敷を馬で出た。
ウマシマジはオトクラジとも呼ばれており、兄のエクラジ(高倉下=大彦)とともに交野市の倉治に住んでいた。
天の川に沿って枚方に向かう途中に中宮・禁野・山戸を通る。そこは、最近亡くなった渚姫(名草姫=卑弥呼=孝元天皇妃)が住んでいたところだ。今は、孝元天皇(饒速日)も名草姫も亡くなってしまい、ひっそりしている。人目に避けるようにウマシマジは、速足でそこを駆け抜けた。
渚(〒 573-1147)から渡し舟で対岸の三島に向かった。行く先は春日(*注下記)にいる建甕槌(タケミカヅチ)の屋敷だ。実は建甕槌はウマシマジの従妹なのだ。ウマシマジは長脛彦の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)で、建甕槌は長脛彦の長男だ。
大和岩雄氏は「古事記では、大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は中臣氏(後の藤原氏)の氏神されるようになってから成立したもの」としている。長脛彦は生きていた!?
建甕槌に屋敷に着くと、ウマジマジはいきなり本題を切り出した。ウツシコオと戦う気があるかと建甕槌に問うた。ウツシコオは孝元天皇(饒速日)の宰相で渚姫(卑弥呼の弟)である。
ウマシマジは、ウツシコオから次期天皇のミマキイリヒコを五十鈴を嫁がすことで、ウマシマジに天皇の後見人として大和(邪馬台国)を任すと約束されていた。五十鈴姫は、表向きは大彦の娘だが、実は饒速日の晩年の子でウマシマジの妹でもある。
ウツシコオが、ウマシマジに大和を任せる条件は、河内にいる長脛彦を倒すことだ。そうでもしないと長脛彦に大和を乗っ取られてしまうという。
長脛彦は、ウマシマジにとっても伯父にあたる。一方、建甕槌はウツシコオの手先となって先日、大彦・アジスキ・タカヒコネ(高日子根)の屋敷を手勢の兵で囲んだ張本人だ。
ウマシマジは建甕槌にウツシコオから、伯父(建甕槌にとっては父親)の長脛彦を討つように言われていることを正直に告げた。
関連項目:長脛彦は五瀬命!?
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
倍賀春日神社~茨木市には春日神社がたくさんあります。
大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏(中臣)ゆかりの地とされています。
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