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邪馬台国全史2~宇摩志麻遅命

更新日:6月10日

第141話~これは小説です。


BC248年11月早朝、ウマシマジは、伴の者も連れずに一人で倉治の屋敷をで出た。

ウマシマジはオトクラジとも呼ばれており、兄のエクラジ(高倉下=大彦)とともに交野市の倉治に住んでいた。


天の川に沿って枚方に向かう途中に中宮・禁野・山戸を通る。そこは、最近亡くなった渚姫(名草姫=卑弥呼=孝元天皇妃)が住んでいたところだ。今は、孝元天皇(饒速日)も名草姫も亡くなってしまい、ひっそりしている。人目に避けるようにウマシマジは、速足でそこを駆け抜けた。


渚(〒 573-1147)から渡し舟で対岸の三島に向かった。行く先は春日(*注下記)にいる建甕槌(タケミカヅチ)の屋敷だ。実は建甕槌はウマシマジの従妹なのだ。ウマシマジは長脛彦の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)で、建甕槌は長脛彦の長男だ。

大和岩雄氏は「古事記では、大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は中臣氏(後の藤原氏)の氏神されるようになってから成立したもの」としている。長脛彦は生きていた!?


建甕槌に屋敷に着くと、ウマジマジはいきなり本題を切り出した。ウツシコオと戦う気があるかと建甕槌に問うた。ウツシコオは孝元天皇(饒速日)の宰相で渚姫(卑弥呼の弟)である。


ウマシマジは、ウツシコオから次期天皇のミマキイリヒコ五十鈴を嫁がすことで、ウマシマジに天皇の後見人として大和(邪馬台国)を任すと約束されていた。五十鈴姫は、表向きは大彦の娘だが、実は饒速日の晩年の子でウマシマジの妹でもある。

ウツシコオが、ウマシマジに大和を任せる条件は、河内にいる長脛彦を倒すことだ。そうでもしないと長脛彦に大和を乗っ取られてしまうという。


長脛彦は、ウマシマジにとっても伯父にあたる。一方、建甕槌はウツシコオの手先となって先日、大彦・アジスキ・タカヒコネ(高日子根)の屋敷を手勢の兵で囲んだ張本人だ。

ウマシマジは建甕槌にウツシコオから、伯父(建甕槌にとっては父親)の長脛彦を討つように言われていることを正直に告げた。


    次回に続く



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>


倍賀春日神社~茨木市には春日神社がたくさんあります。

大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏(中臣)ゆかりの地とされています。


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