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邪馬台国 第481話~第520話


第485話:天孫とは?

第487話: おしら様は、、、


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第503話:日高見国~私見

第505話:大将軍・艮の金神

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第511話:八咫鏡・石凝姥命

第519話:六角堂と平安京






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仏教伝来異聞

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 04
Rated 5 out of 5 stars.

㈲ 壬午年。新羅不奉貴国。

(C)

新羅人荘飾美女二人。

而納新羅美女。

奥  m 尚

       ②

加羅国王妹既殿至。向大倭啓云。

  ④

迎誘於津。沙至比脆o受其美女。

       ⑥

兄弟人民。皆為流沈。不任憂思。

  ⑦

故以来啓。

      ③

貴函遣沙至比脆令討之。

天皇遣沙至比脆。以討新羅。

     ⑥

反伐加羅国。

捨而不討。反滅我国。

 ③・④・⑤が対応しており,(c)⑥は㈲と対応する関係にあることかわかる。3項目の対応項

目をもつ㈲と(c)は, (A)の補強材料として(c)が記されたのか,あるいは㈲の記述根拠つまり原資

料が(c)であることを示すために記されたのか,の2つの場合が想定できる。(c)⑥が(B)と対応関

係にあることは, (c)を基礎に㈲が記述され,別の文(B)が(c)⑥に対応するものとして付加された

と理解でき,後者の理解が妥当であることを証していると思われる。いわば『書紀』の分注に

 『百済記』が記されているのと同様,『百済記』の本文㈲・(B)の分注に相当するものが(c)であ

るといえよう。(D)が(c)の一部なのか,『百済記』本文つまり㈲・(B)と同列なのかは判断しがた

い。(c)に「天皇」の用語かおり,(D)にもあるから, (c)・(D)は一連のようにもみえるが,応神紀

25年条所引『百済記』は本文と思われるが,そこにも「天皇」の用語がみえるのである。㈲は

一応『百済記』本文とみなしておきたい。

 (c)はF百済記』本文の(A)・(B)の分注に当るからこそ,日本を指す「大倭」の用語がそのまま

残されているのであり,『百済記』編者が原資料を尊重していることを示すものといえる。 し

たがって(c)③にみえる「天皇」の用語も原資料に存在したとみられ,『百済記』の依拠した原

資料が推古朝を遡りえないことを示しているのである。

 数少ない資料からの推論であり危険性は高いことは充分に承知しておかねばならないが,沙

至比脆の記述のある原資料が推古朝をあまり遡りえない時点のものであることがわかる。こう

考えるとき『百済記』と『百済本記』では,三品氏のいわれる如く必ずしも『百済記』が古い

とは考えがたく,井上秀雄氏の如く『百済記』の方を後代の撰述とも考えうる。また三品氏が

論証されたように,欽明朝をあまり遡らない時期の事実をはるか前代に投影して『百済記』が

叙述されている原囚も納得しうる。

 したがって,神功紀62年条所引『百済記』の本文㈲・㈲の原資料(c)自体も,継体・欽明朝

の諸事実から造作された可能性が高いものといえよう。そこで(c)にみえる人名の加羅国王妹の

 「既殿至」の名に着目すると,継体紀7年11月5日毎の「伴破」の「既殿総」が注目される。

 [既殿矣]はまた欽明2年4月条・同5年n月条の[加羅上首位]の「古殿災」と同一人物と

-11 Q

五世紀代二人物の実在性について

みられ,継体・欽明朝に活躍する人物である。「既殿呉」と「既殿至」では「既殿」が一致す

るが,残る「至」については「既殿笑」と同一史料の継体紀7月n月5日条に「伴破既殿笑及

竹淀至」と列挙された「竹淀至」の「至」と一致する。

 次に(c)のもう一人の人名,問題の「沙至比脆」についてはどう考えられるであろうか。この

人名に酷似した人名を同時期に求めれば「大伴狭手彦」の[狭手彦]をあげることができる。

「沙至比脆」と「襲津彦」は2字の音の交替を想定する必要かおるが,「沙至比脆」と「狭手彦」

では1音の交替を考えればよく,「チ」と「テ」は充分交替可能の音とはいえないだろうか。

 また大伴狭手彦の活動をみると,宣化紀2年10月1日条に「往鎮任那。加救百済」とあり,

任那は加羅国などの総称であるから充分に(c)に伝えられる伝承の背景が成立しているとみられ

る。(A)①の「壬午年」に注目すれば欽明23 (562)年が「壬午年」で,この年8月には狭手彦は

 「天皇遣大将軍大伴連狭手彦。領兵数万。伐干高麗」とあるように,高句麗と戦うために朝鮮

       38) へ派遣されている。この年は1月に「任那官家」が新羅に滅ぼされ, 7月には大将軍紀男麻呂

が任那に派遣され百済と共に新羅と戦い敗北している。紀男麻呂の軍事行動と大伴狭手彦の軍

事行動は一連のものと解しうるから,『紀』には大伴狭手彦の任那・加羅での軍事行動の記載

を欠くが,当該地区での軍事行動をさけ高句麗と戦った狭手彦の行動は,(c)⑤の「捨而不討」

の原形とみることもできよう。ここまでの臆測は過剰であるとして乱「壬午年」には「加羅国

王妹」が日本に対して日本の将軍が新羅と通じて「反滅我国」と訴えた事実があったと想定す

ることはできよう。 この事実を記した原資料(c)を,『百済記』編者が干支何運かの操作を加え

て記事としたものが㈲であるとみることも可能であろう。

 これらを臆測としてしりぞけたとしてもなお,『百済記』の本文(A)の原資料が(c)であり, (c)

の用語に「天皇」が使用されているのだから, (c)の人名の「沙至比脆」は「天皇」用語の成立

代の人名であることだけは確実であるうと思われる。もちろん(c)②の「大倭」はたまたま『百

済記』編者も『紀』編者も潤色し忘れ,(O③の「天皇」のみは潤色を忘れなかったとみればこ

の論もまた成立しえない。あくまで神功紀62年条所引『百済記』の原文を忠実に考えるとすれ

ば,上述のように解釈しうる余地かおるにすぎない。上述のようにみるとすれば「沙至比脆」

を「葛城襲津彦」と同一人物とみなしえない解釈の成立する余地があるのである。

 このように葛城談津彦の実在説に疑義をさしはさむ余地のあることを記して,葛城典津彦の

実在性の検討を終え,雄略天皇の実在性の検討に移りたい。

                     (五)

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 04
Rated 5 out of 5 stars.

奥  田 尚

一応このように7点にまとめることができるが,このうちの④・⑤が『百済記』の史料批判と

しては画期的な意味を有する。三品氏は同論文において,神功紀49年条の百済肖古王父子と日

本の盟約の記事は,欽明紀2月4月条にみえる聖明王の近肖古玉・貴須王に対する回顧記事と

対応し,聖明王代の理想像を投影したものが神功紀49年条であるとされた。また別論文におい

ては,神功紀49年条の加羅七国の平定記事は欽明朝をあまり遠く遡らない時期の歴史的事実に

             30) 基づくことを論じておられる。

 この三品氏の批判を一貫させれば当然に神功紀62年条の『百済記』に及び,それもやはり欽

明朝頃の歴史的事実の反映ということになる筈である。したがって葛城長津彦=沙至比脆の虚

構性も明らかになると考えられる執 これについては三品氏は「井上光貞博士は襲津彦の実在

と仁徳以後継体までの帝紀的記載の天皇をはじめ皇妃・呈子・媛の名を信憑度の高いことを推

                   31) 論し,私もまた賛意を表したところである」と述べておられ,残念ながら神功紀62年条に及ん

でおられない。拙稿の中心課題となるのは,神功紀62年条もまた,三品氏が神功紀49年条につ

いて論証されたのと同一に論じうることを,実証することである。

 三品氏はまた『百済氷記』の撰述年代については,『百済本記』が聖明王代で終っているか

                                     32) ら「王代史編纂の方式として,それが威徳王代に撰述されたと推断してよかろう」と述べてお

られる。『百済記』については述べておられないし,これと⑥・⑦は併立しえないから,どう考

えておられたのか不明である。前引の『百済本紀』の撰述年代については,笠井氏は既述のよ

うにこれを断案として支持されたが,たとえば『記』はいかに遡るうと天武朝以前の完成では

ないかその記述は推古朝で終っており,r紀』は元正朝の成立であるが元明・文武朝の記載は

なく持統朝に終ることなどを考えれば,威徳王代と限定するよりももう少し時期の下る可能性

をも秘めているとみた方がよいのではなかろうか。『百済記』については後に具体的に言及し

たい。

 また『百済記』の干支は『紀』編者により二運くりあげて『紀』に採用していることは定説

                             33) であるが,山尾幸久氏は三巡くりあげられたことを論証された。山尾氏は応神紀25年条分注所

引の『百済記』にみえる「木満致」は,『三国史記』百済本紀の蓋白王21 (475)年9月条にみ

える「木鳥満致」と同一人物であるから,定説のように応神25年を414年とみることはできず,

さらに60年くりさげた474年のこととすべきだと説かれた。さらに山尾氏は神功紀49年は定説

の369年ではなく429年,神功紀62年は定説の382年ではなく442年のこととみるべきだとも主張

される。山足説にしたがえば,葛城襲津彦は五世紀中葉の人物となり,井上説は根底から揺ぐ

ことになる。しかし山尾説に立脚する場合には,葛城襲津彦の実在そのものは否定されること

にはならないといえよう。このためか山尾氏は,井上氏の前掲論文を註に引用して「姻族とし

て葛城地方の部族(かりに“葛城氏”といっておこう)が有力であったらしいことは,ほぼ推

   34) 察される」と述べておられる。

-108 -

五世紀代二人物の実在性について

 笠井氏は『百済記』について「書名から考え,『百済記』と『百済本記』とは互いに対応し

             35) て撰述されたものと思われる」として,『百済本記』については三品説を支持し威徳王代撰述

とされたことは既にみたとおりである。井上秀雄氏は『百済記』は百済滅亡直後とみておられ

ることも既に述べたが,『百済記』の撰述を古い時期とみた場合には,威徳王代の554年から598

年がひとつの目安となる。 山尾説のように解してさえ,葛城襲津彦=沙至比脆の記事の442年

とはnoないし150年の距たりがある。この点では『百済記』の信頼匪は大いに問題とされざる

をえない。

 また通説では神功紀・応神紀の百済王暦は『百済記』にもとづいており,干支二連くりあげ

て『紀』に記されているとする。山尾説では百済王暦以外の「百済記」の記事は三運くりあげ

られていることになるわけで,『紀』の編者か『百済記』の王暦部分と記事部分とに分けて片

方を二運,もう一方を三運くりあげたとみるか,『百済記』の編者が記事部分の干支を一運す

でにくりあげており,それを『紀』の編者が全体として二運くりあげたかの両方の場合を考え

           36) ねばならないことになる。『紀』編者が『百済記』の記事を分割して操作する必然性はないと

思われるから,『百済記』の編纂の時点で既に千支一連のくりあげ操作が『百済記』編者の手

によってなされていたとみるべきであろう。この点からも『百済記』自休の信憑性は回題とさ

             37) れる必要性かおるといえよう。

 葛城武津彦=沙至比脆の記載のある神功紀62年条分注所引の『百済記』について,具体的に

この点を検討してみたい。

                     (四)

 神功紀62年条所引『百済紀』は次掲の如く4小部分により全文が構成されている。

 (A)壬午年。新羅不奉貴目。貴函遣沙至比脆令討之。新羅人荘飾芙女二人。迎誘於津。沙至

  比脆。受其美女。反伐加羅田。

 (B)加羅国王己水旱岐。及児百久至・阿首至・国沙利・伊羅麻酒・街談至等。将其人民。来

  奔百済。百済厚遇之。

 (C)加羅国王妹既殿至。向大倭啓云。天皇遣沙至比脆。以討新羅。而納新羅美女。捨而不討。

  反滅我目。兄弟人民。皆為流沈。不任憂思。故以来啓。

 (D)天皇大怒。即遣木羅斤資。鎖兵衆来集加羅。復其社稜。

一見して気付くことは, (A)と(C)が対応関係をもっていることである。また同じ日本を指す用語

が㈲では「貴匡|」,(c)では「大倭」となっていることも注目される。もし何時かの時点でE百済

記』全文に改修の手が加えられたとすれば, (c)の「大倭」は「貴国」と改められている筈であ

る。 この改変が加えられていないことは,『百済記』は原文のまま『紀』に引用されたことを

物語っていると思われる。次に㈲と(C)の対応関係を表示してみよう。

-109-

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