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tootake

野見宿禰は大阪府高槻出身

更新日:4月20日

第179話


今回は、牧野車塚古墳から真西に行ってみましょう。高槻・上宮天満宮があります。

この地は、天神山(てんじんやま)、日神山(ひるがみやま)と呼ばれる丘陵上で、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したといいます。


正暦4年(993年)、菅原為理が太宰府に下向して菅原道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地(高槻)に達した時に急に牛車が動かなくなりました。為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが上宮天満宮の始まりです。道真を祀った社としては太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古いものです。


もともとこの地は、延喜式神名帳に記載される摂津国島上郡 野身神社があり、土師氏が氏神として祀っていたと考えられています。それが後になって道真を祀る天満宮が創建されました。野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にあります。


大阪府高槻市の上宮天満宮は境内の野身神社に「式内野身神社并野見宿禰墳」の石柱が立ち、かつて周辺に土師一族が住みついていたことが書いてあります。(下図参照)

『和名抄』には摂津国島上郡に「濃味郷(のみのごう)」の記載が見え、「のみ」が古い地名であることが示唆されています。高山右近の高槻城があった辺りが「のみ」です。現在、この場所に野見神社が建っており、能見宿祢も祭られていますが、能見宿祢の伝承は残っていません。〒569-0077大阪府高槻市野見町

10世紀末に高槻城が築城されると城内守護として崇敬されていましたが、16世紀に高山右近が高槻城主となったとき、右近はキリスト教徒だったため高槻城内にあった野見神の社殿を破壊し、社領を没収したそうです。


このように野見宿祢は高槻の出身ですが、何故か出雲出身とされてしまっています。出雲風土記に「野見」は、飯石(いいし)郡条に「能見」地名の記載があり、この地の出身とされているという記述があるためでしょう。

奈良県にも野見宿禰の墓があり、野見宿禰と当麻蹴速が取り組みをした「相撲発祥の地」とされています。


日本書紀に「垂仁天皇32年に皇后の日葉酢媛命が亡くなると、天皇はその葬礼をどうするか群臣に諮問した。当時の風習で殉葬が行われると、悲惨な光景が展開したので、天皇はそれを何とかしたいと考えた。その時、野見宿禰が、出雲国の土部100人を呼び寄せ、彼らを使って土で人や馬など様々な物の形を作り天皇に献上した。ここに殉葬の風はなくなり、天皇は野見宿禰を土部職に任じた。これが、土部連らが天皇の喪葬をつかさどるようになった由縁であり、野見宿禰は土部(土師)連らの始祖である。」との記載があります。もちろん歴史的事実ではありません。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



<関連項目>


野見神社(のみじんじゃ)大阪府高槻市野見



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4 Kommentare

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
19. Dez. 2023
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銅鐸出土数

旧国名 1式~3式   Ⅳ式-1 Ⅳ式-2~5

出雲 50  0 0   出雲が多いのは後から捨てた分

阿波 26 1 1

紀伊 18 0 17

近江 6 5 20

摂津 26 0 7

遠江 10 2 7

三河 3 2 10

総数 260 15 124

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tootake
16. Dez. 2023
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大古墳群と土師氏の関わり―墳墓造りを担った古代氏族 舘野和己氏(1/2ページ):中外日報 (chugainippoh.co.jp)


大阪府立近つ飛鳥博物館(大阪府河南町)では、夏季特別展「百舌鳥・古市古墳群と土師氏」を9月29日まで開催中である。それぞれ堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)と羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)を代表格とする百舌鳥古墳群と古市古墳群が今年7月に世界文化遺産に登録されたことは、多くの方がご存じであろう。両古墳群では4世紀後半から6世紀前半にかけて多数の古墳が造られ、その中には大王墓とみられる大型前方後円墳が含まれている。しかし土師氏というと、あまりなじみがないのではなかろうか。古代氏族の一つである土師氏は大勢力ではなかったが、天皇や高官たちの墳墓造りや喪葬儀礼への関与という重要な職掌を担っており、両古墳群の造営にも関わったと考えられている。その土師氏について少し紹介してみよう。

殉葬の風習廃止で活躍

ちなみに野見宿禰は同じく垂仁天皇の7年に、当麻邑の当麻蹶速と力比べをして勝ち、当麻蹶速の地を天皇から賜り、朝廷に仕えるようになったとも伝えられる。相撲の起源伝承である。当麻は二上山に近い。そしてそこは石棺に用いられた凝灰岩の産地であったから、これは石材の確保争いが背後にある伝承ともみられている。そもそも野見宿禰の野見は、石を削る工具であるノミにも通じる。そうであるなら、野見宿禰を祖とする土師氏は、土部を率いて埴輪を作るだけでなく、石棺さらには墳墓そのものの造営にも携わることを職掌としていたと考えられるのである。


しかし6世紀後半以降になると畿内では前方後円墳は造られなくなる。当然埴輪も不要となり、土師氏は大きな転機を迎えた。そうした中、推古天皇11(603)年に、征新羅将軍として進軍した来目皇子が筑紫で亡くなると、天皇は周防国で殯を行い、土師連猪手にそれを掌らせたという。埋葬以前の遺体を建物内に安置して、儀礼を行ったのである。猪手は皇極天皇2(643)年には、天皇の母の喪を管掌している。 さらに白雉5(654)年10月に、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮で亡くなると、百舌鳥土師連土徳が殯宮のことを掌った。このように土師氏の職掌は墳墓造りから、喪葬儀礼、特に殯の管掌という方向に移っていったのである。 『日本書紀』は養老4(720)年にできあがった。そこに記された野見宿禰の伝承などは土師氏の提出した資料によったものであり、喪葬関係の職掌に土師氏が誇りを持っていたことを示している。

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tootake
16. Dez. 2023
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野見宿禰の後胤として葛城氏、土師氏などが挙げられる。土師氏の中には、姓を菅原氏秋篠氏大江氏の諸氏に改めた氏があるとのことであり、その菅原氏から公家五条家 (堂上家)が輩出された。そして五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となった。 また、菅原氏は特に菅原道真の嫡流には高辻家があり、その庶流として唐橋家、支流として五条家がある。また五条家の支流として東坊城家清岡家、庶流として桑原家が輩出されたとのこと。この六家は堂上家であり、うち五家は明治時代においていずれも華族となり当主は子爵に叙されている。

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